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2011年09月16日

民なき土地の民

民なき土地に、土地なき民を

第二次大戦中の、ナチスドイツによる大量虐殺を耐えたユダヤ人たちが、パレスチナの地にイスラエルを建国した際に用いたスローガンである


僕はその「民なき土地」に建てられた国、イスラエルに昨日から来ている。イスラエルという国名を聞いて皆さんは何をイメージするだろうか。
攻撃やテロが繰り返されている危険な国で、渡航するのはちょっと…といったところだろうか。
しかし、僕の見たエルサレムは観光都市そのもので、新市街の調和のとれた街並みはパリの街のようであったし、三代宗教の聖地が集まる旧市街からは厳かさを確かに感じ、それと共に暮らす人々の平和な息遣いが聞こえてくるようだった。
だからといってイスラエルの抱える緊張を僕達に感じさせる場面がなかったわけではない。旧市街の中に位置するユダヤ教の聖地の「嘆きの壁」に近づくにつれて、イスラエル兵をちらほらと見かけるようになる。そしてついに「嘆きの壁」へのゲートをくぐると、そこにはひしめく観光客の数に匹敵する程の数のイスラエル兵がライフル銃を肩から下げながら職務をしている光景に圧倒された。ライフル銃というのは警察官が腰から下げている拳銃と違い、それを身につけた人間が近付いて来るだけで、威圧感と恐怖を感じるような武器である。それをぶら下げているのは志願して集まってきた兵士ではなく、18歳から徴兵されて兵役についている女性も含めた若者達であり、中には僕達よりもまだどこかあどけないような兵士もいた。

日本よりも豊かなようにも見えるこの国で何故そこまで強力な軍事体制を布く必要があるのか。彼らの敵の正体とは一体何なのか。

「僕はこの草を見ると悲しくなるんだ。パレスチナにも生えてるもので、故郷を思い出すから。」
一枚の写真を指差して、アハンマドが僕の目をちらりと見ながら呟く。アハンマドはヨルダンに住むパレスチナ難民の12歳の少年だ。
僕は昨日までヨルダンにいた。そして、ニ日間に渡ってアハンマドや他の難民の子ども達と関わってきた。
その中で僕たちはFocus on Myelfというプロジェクトを行った。まず子どもたちに、大切なもの、辛いもの、自分の国の紹介を写真に撮ってきてもらう。そして、その写真の中から僕らと彼らの意識の違いや、各国の子どもの意識の違いに気づいてもらうための写真展を開くプロジェクトだ。
アハンマドが指差していたのは、辛いものと自分の国の紹介として彼が撮って来たものである。他の子供達も同様に、辛いものの写真としてパレスチナに因んだ何かが写ったものを指差す。ただ、彼らにパレスチナに行ったことはあるのかと尋ねると、NO、と全員が答えた。

イスラエルは、第二次対戦中のナチスドイツによる大量虐殺を耐えたユダヤ人によって「民なき土地」につくられた。過去二千年以上に渡って迫害されてきた彼らは、「土地なき民」として世界を放浪した。その間に彼らをユダヤ人たらしめたのは、旧約聖書の中でユダヤ人に約束された「カナンの地」であるパレスチナにいつか帰れるという信仰だけである。

そして彼らは、1948年に約束の地パレスチナを手に入れる。その一方で、パレスチナを追われたアハンマドの先祖たちはヨルダンなどに逃れた。そしてその子孫であるアハンマド達は全世界に450万人以上の規模となり、そのほとんどが今でもパレスチナに足を踏み入れることを許されていない。そして、パレスチナの土地を取り返すための戦いを続けている。

かつての「民なき土地の民」たちが、今度は「土地なき民」となり、先祖の地に帰る日を夢見て世界をさまよっている。

僕は両方の「土地なき民」達に安息の日が訪れることを心から願う。


日本にいるとわかりにくい両国の姿を書くことで、イスラエルとパレスチナの問題に一人でも多くの人が興味を持ってくれたら思いこの記事を書きました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


広報局一年 藤井義隆

百聞は一見にしかず

はじめに、カンボジアスタツアはビジネス班と教育班の二組に分かれて活動しています。自分はビジネス班に所属しているので主にカンボジアでのビジネスの話が多くなるかと思います。


まず、カンボジアに来て思ったことは、「事前に日本で本を見たりして予想していたほどカンボジアは発展途上国という感じではないな」ということでした。自分が勝手に思っていたカンボジア像では最近発展しつつあるとはいえ、日本に住む自分のような人にはまだまだ生活しづらい環境ではと思っていました。しかし、実際は外国企業もたくさん進出していて、自分が持っていたイメージとは違いました。


また、実際にカンボジアに訪れ、現地でビジネスをしている方々のお話を聞くことができたのはかなり貴重な体験でした。私は今回のカンボジアスタツアを通し、BoPビジネス(低所得者層を巻き込んだビジネス)について学び、理解を深めようと考えています。単に学ぶだけなら、日本でもできるのではないかと思うかもしれませんが、BoPビジネスに関して日本の書籍などから得られる知識には限界があります。そのため、本当にBoPについて知りたいならば、現地に行き直接聞いてみるのが一番ではと考えました。


実際、現地でビジネスを行っている方々に話を聞いたところ、自分の抱いていたBoPビジネスというビジネスモデルは簡単に崩されました。自分の中のイメージではBoPは企業も儲けて低所得者層も支援できる理想的なビジネスモデルだと思っていました。しかし、単純にBoPビジネスといっても、それに対する現地の日本人の企業、企業家の方々の考え方は皆少しずつ違いました。そのなかでも皆さんが一貫して言っていたのはBoPビジネスは誰もが得するような夢のようなではなく、利益追求をせざるを得ない企業側の立場からすれば、実際はもっと現実的に考えなければ成り立たないとのことでした。この話を聞き、すごく納得させられましたが、少しショックな部分もありました。しかし、夢のようなあいまいなBoPビジネスモデルのままでは通用しないという事実を知らなければ何も始まりません。


まだ、活動を始めてからは二日目ですが、現地の方に直接お話を聞いていなければ、私の中のBoPビジネスのイメージはただの空想論のままでした。自分の足で現地に訪れて初めて分かることが本当にあり、「百聞は一見にしかず」とはこういうことなのかなと、実感させられました。


今日はいろんな意味で疲れましたが、明日以降も様々な発見をすることができることを期待して残りの時間を有意義に楽しみたいと思います。


【渉外局二年 成田遼平】
posted by S.A.L. at 03:51 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

カンボジアの子供たちと出会って

カンボジアスタツア3日目。
教育班は、公立の小学校と孤児院を訪ねました。

率直に、子供たちの笑顔がすっごくかわいかったです^^

孤児院に行く前は、
子供たちはつらい過去を背負っていて心を閉ざしてるのではないか、
おとなしくてあまりコミュニケーションがとれないのではないか、
などというマイナスのイメージがあったけれど、
そういうイメージはいい意味で覆されました。

子供たちはとても明るくて人懐っこくて、
披露してくれた民族舞踊を踊っている姿や
私たちにに思いやりをもって接してくれる姿は、
この子達に親がいないという事実を感じさせませんでした。

でも、子供たちに孤児院での生活をインタビューしたり、
小学校で孤児院の子が差別されているをいうお話を聞いたりする中で、
子供たちは、孤児院の生活を楽しみながらも親に会いたいと思っていたり、
自身が孤児であることを日常的に感じてしまったりするのだと思うと同時に、
カンボジアでは家庭の貧困ゆえの孤児が当たり前に存在するということ実感しました。



スタツア3日目を終えて、
さまざまな支援の対する考え方やあり方があって
そのどれが正しくてどれが間違っているとはいえない
からこその支援の難しさを感じています。

これからのスタツアの中でさまざまな考え方を知り吸収し
自分の考えを深めていきたいと思います。


国際局1年 三井薫子
posted by S.A.L. at 02:27 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月15日

10年目に



絶対に何かが起こると思っていた。


2011年9月11日。


そびえ立つ双頭のビルに突き刺さるボーイング
黒煙をあげ崩れ落ちるワールドトレードセンター
全世界を震撼させた米同時多発テロからちょうど10年。

その日、私はヨルダン、ペトラ遺跡にいた。

奇しくも今年の5月にオサマ・ビンラディン氏が殺害されたこともあり、
私はこの日に自分がアラブ人に囲まれて中東という地域にいることに感謝しつつ、同時に恐怖もしていた。

しかし、実際にその日何かが起こることは無かった。

私はほっとしたと同時になにか肩透かしを食らったような気分だった。
だが、この時の私の考えは全くもって私たち外側の人間の勝手な想像なんだと、後になってはっとした。

「9.11」という日になにかが起こるに違いないという私の考えには、


「中東のひとは、あるいはイスラム教のひとは、
9.11に特別な感情を抱いているに違いない」
ひいては
「またあの日のようにテロを起こすに違いない」

そんな私たちのステレオタイプ、偏見が色濃く影を落としているのだ。


本当は、そんなふうに一概に捉えることは過ちだと、
私たち外側の人間こそ冷静に
彼らの本当の姿を見なくてはいけないんだと、
そう考えて、
そういうふうに周りにむけて発信するつもりで
ヨルダンに来ていたはずなのに、
結局私もまたそのステレオタイプを捨て去ることが出来ていなかったのだ。

 そう感じると同時に
私はその日までに出会った数多くのアラブ人に対し
申し訳ない気持ちになった。


精一杯歌や踊りで私たちを歓迎してくれたパレスチナ難民の子供たち、
恋に悩んだり、進路に悩んだりしていたイラク難民の女の子たち、
私のあげたほお紅を嬉しそうにつけていたベドウィンの少女、

そして
すれ違うたびに「welcome to Jordan!」と
私たち日本人に笑顔であいさつしてくれるヨルダンのひとびと。

当たり前だけど私たちと何ひとつかわらない
むしろ、より寛容で、おおらかで優しい人たちばかりだ。


もちろん、そうに違いないと頭でわかっていても、
私も実際にアラブ諸国を訪れるまで気持ちの上で、
心の底からそう思うことはできていなかった。

中東という遠い国であることや、情報の少なさもあって、
「よくわからない」ものへの恐怖もあるかもしれない。

それでも、
少なくともイラク戦争時に自衛隊を派遣した国の一員としても、
「よくわからない」では済まされないはずだ。
きちんと中東や、アラブに生きるひとびとに向き合い、
彼らのことを理解しようと努力することを怠ってはいけない。
改めてそう感じた。
それこそが、未だに銃撃戦のやまぬイラクや、パレスチナのひとびとへの
私たちのひとつの責任の取り方、ひとつの援助でもあると思うのだ。


国民的アイドルグループもこう歌っているではないか。
「精悍な顔つきで構えた銃は 他でもなく僕らの心に突きつけられている」と。







これは2011年9月11日の記事です。
この日は奇しくも3.11からちょうど半年に当たる日でもありました。
全ての被災地で、同じように心ない偏見が生まれませんように。



(文責 広報局3年 黒島秀佳)

共生と分離


私たちが旅の前半戦の拠点としたエルサレムの旧市街はとても不思議な街である。
ユダヤ人地区、アラブ人地区、アルメニア人地区、キリスト教徒地区の4つに分けられるその街は、それぞれに属する人々が絶対的な個性を保ちながらもともに共存している。アメリカ合衆国の多様性を表すのに「サラダボウル」という言葉がよく使われるが、この旧市街もまさにその言葉通りといえる。

それは東京から初めてこの街にやってきた私にとっては驚きだったが、エルサレムの人々にとってはごく普通のことでしかない。

スカーフで頭を覆った女性がアルメニア人地区で買い物していくのも、金曜日の夕方に恰幅のいいパパオーソドックス(正統派ユダヤ教徒、黒く裾の長いスーツを着て黒の帽子を被り、多くがヒゲともみあげの毛を伸ばしている)がちびオーソドックスたちを引き連れて嘆きの壁へとアラブ人地区を颯爽と通り抜けていくのも、また自動小銃を肩にさげたイスラエル兵たちの姿でさえ、彼らにとっては日常の一ページにしかすぎないのである。

もちろん、この街にきてまだ短い私には見えない本質があるのかもしれない。
しかし、いちツーリストとして私がエルサレムに見たのは、多様な人々が互いを受け入れて共存している姿だった。



一方で、旧市街とは全く違うイスラエルの側面も垣間見た。

私たちがUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の協力のもと訪問させていただいたのは、パレスチナ自治区ベツレヘムにあるアイダ難民キャンプである。

難民キャンプはその自治度に応じてA、B、Cの3つにカテゴライズされる。
Aは絶対的な自治を行い、Bはセキュリティのみがイスラエルに管理され、Cはイスラエルの管理下にあるキャンプである。
アイダ難民キャンプはこのうちのAに該当する。
多くの人が難民キャンプに抱くであろうイメージとは裏腹に、このキャンプでは教育も医療も職業斡旋も十分にUNRWAによってカバーされ、もちろんインターネットも使えテレビもみれる。お金持ち、というわけではないが、みな自分の家族の家を持ち生活している。

話を聞いたUNRWAに属するアイダキャンプの責任者であり自身も"パレスチナ難民"であるイブラヒムさんは、
「ここにくる外国人には、古い建物や壁の写真ばかりをとって、彼らのイメージ通りの"難民キャンプ"を求める人たちもいるが、ここはもうそんな場所ではない。」
といった。

しかしながら、それが全てではない。
水道設備は完璧でも、水道水の大元がイスラエルの完全な管理下であるC地区にあるため、アイダキャンプでは水道が止まることも週に何度もあるという。



イスラエルパレスチナ問題の話をきく中で彼はいった。

「これは全く宗教の問題なんかではないんだ。私たちは近隣のキリスト教徒ともユダヤ教徒とも仲がいい。イスラエルとだって互いを受け入れればいい話だ。しかしイスラエルはこのような態度をとる(分離壁を建てたことを指して)。この壁があったらどうしようもない。パレスチナの子供たちはこの壁を不思議に思って何なのか聞くだろう。そうしたら私たちは真実を教える。また壁の向こう側の子供たちも同じ疑問を持つだろう。そしてユダヤ人の親は彼らにとっての真実を教える。パレスチナ人は悪い奴らだと。」



最後に親切な彼は私たちにオススメの観光スポットの話をしてくれた。
岩のドームにいったかと聞かれまだだと答えると、
「あそこは素晴らしいところだ、みながいきたがるんだよ。」
とムスリムの彼は教えてくれた。

分離壁に囲まれたパレスチナ人らは、老人や病気などよっぽどの理由がない限りエルサレムに入ることは許されない。
岩のドームに行きたくても行けない人はきっと多くいる。



壁によって分断されたこの国は多くの側面を持っている。

私は幸運にもこの旅でイスラエルやパレスチナの多くを見るチャンスを与えられた。簡単に知ることはできないかもしれないが、この国を表面的にではなく捉えていければとても価値のあるものになるだろう。

難民キャンプや翌日のハイファ大学訪問で聞いた価値のある話は本当に多くあるので、イスラエルについて私の学んだことや感じたことをまた別の形でアウトプットしていきたいと思う。

それは、難民キャンプやハイファの学生に約束したことでもあるから。

渉外局1年 山崎慧
2011.9.14.

カンボジア2日目

今日の午前中はバラックスラムに行ってきました。バサックスラムとはカンボジアの中心部から少し離れた郊外にあります。そのなかで、貧困のために学校に通わせることが出来ない親元を離れた子供たちが30人ほどで共同生活をしている場所に行きました。下は2、3歳から上は18歳までいて学校にも通っています。

子供たちは本当にかわいかったです。行く前はどんな子供なんだろうと心配したけれど、ついた瞬間に抱きついてくる人なつっこい子達ばかりでした。しかも、ヘビーローテーションやソーラン節を踊ってくれました!思い描いていたバサックスラムと全然違っていたのに驚きました。環境も良いとはいえないけれど、井戸も敷地内にあったりしてととのっていました。なにより子供たちは親元を離れているとは考えられないほど元気でした。

たくさんいる子供たちの中でもスレイノウという14歳の女の子と結構一緒にいたのですが彼女は日本語の読み書きもできて、ほどんど日本語で会話していました。また、私に日本のこともたくさん聞いてきて、好奇心旺盛だったのでもしも教育がととのっている環境にいたら優秀であったと思いました。だから、このような子供たちのためにも教育をととのえることが本当に必要だと感じました。

その後、私たちはCIESFという主にカンボジアの教師の育成をしている団体を訪問しました。そこではカンボジアの教育の改善の必要性を知りました。実際に子供たちと触れ合った後であったのもあり、子供たちのためにも良い教育が受けられる環境になるといいなと思います。

カンボジアスタツアはまだまだ続きますが、思い描いていたものと現実との違いを今後も実感していくと思います。感じたことを忘れないで大切にして、日本にもって帰りたいです。






posted by S.A.L. at 03:08 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月14日

中東のかけはし

"Welcome to Jordan!!" 

街に出るたびに、にっこり笑顔でわたしたちに話しかけてくるヨルダンの人々。中東•イスラームといったら、「テロ」や「原理組織」「武装」といった暴力的な言葉が思い出されるが、彼らの笑顔からそのような言葉を思い浮かべたことは一度としてない。ここ、ヨルダンにきて、私は大きな衝撃を受けた。今まであれこれと想像していた中東の世界とはまるで異なっていたからだ。

人口の7割が難民だというヨルダン。これほどまでに難民の受け入れ態勢が整っていて、開けているのには理由がある。ヨルダンは天然資源もなければ水資源もないため、他の国に頼らなければ生きていくことができない。隣国の中東諸国と、さらにはアメリカとも良い関係を保っていかなければならないのだ。しかし、私はそのヨルダンの特徴、「外交」こそが、あの社交的で明るいヨルダンの人々の国民性を生み出しているのだと感じている。このヨルダンが中東世界を、そしてアメリカなどの欧米諸国とをつなげる架け橋になるのではないかと希望を見出すことかできた。どのような国になっていくのか、スタディーツアーが始まってから想像を膨らませてきた。そしてついに、今日9月13日、ヨルダンの子どもたちにヨルダンの未来をどのようにしたいか聞くことができた。

私たちは、日本のNGO団体、「国境なき子どもたち」を訪問させていただき、12歳から18歳までのヨルダンの青年たちとヨルダンの未来を語り合った。

方法は絵を通して。グループで1つの画用紙を使い、一人一人がヨルダンの未来を画用紙の上に描き表していった。グループで1つの作品を作ることによって「相手の意図を読む」「自分の考えを伝える(言語の壁を越えて)」「調和(共存)」を実現させたいという思いがあった。この要素が国作っていくために必要だと感じているからだ。

それぞれの作品は大変興味深かった。日本との交流をもっと深めて科学技術を教えてもらいたいという意見や、ヨルダン人みんなが仲良く暮らせる場所にしたいという意見、ヨルダン人も月に行ってヨルダンの旗を立てるんだ!などといった明るい未来を想像させる意見であった。中にはアメリカのようにビルがたくさん立ち並ぶ街にしたいという意見もあった。他の国との関係を大切にしながら発展をしていく、そんな未来を思い描いた。

しかし、1つのグループの絵は飛行機とそこから落ちる爆弾、銃を抱えた子ども、道端に倒れる人が描かれていた。銃を抱えた子どもには「パレスチナ」、道端に倒れている人の上には「イスラエル」と書かれていて、その絵の裏側には動物や水、木や笑った人の顔が色とりどりに描かれていた。

「今のパレスチナとイスラエルが反対になれば、きっとこんなにも素敵な世界になるんだ。」

「外交」から、たくさんの考えが取り入れられるようになり、様々な感情が交錯するこのヨルダンで、どのような未来を作っていけるのか、私は、また新たに考えを巡らせている。

【渉外局1年 大木 千加】

人の痛みを自分の痛みに。

昨日でヨルダンでの『Focus on myself』のプロジェクトが終わった。

ヨルダン一日目のブログにあった通り子供達にインスタントカメラを渡して『嬉しいこと』『辛いこと』『自分の国の紹介』というテーマでそれぞれ写真を撮ってきてもらい、昨日は子供達に子供達自身のことと写真についてインタビューをした。

私はパレスチナ難民の子供達にインタビューをしたのだが、子供達は楽しそうに答えてくれた。


しかし『辛いこと』というテーマで撮ったきてくれた写真の説明をするとき、大半の子は顔を曇らせる。


エイヘムという男の子は緑と赤のスカーフを指差してこう言った。
「この写真を見ると故郷のことを思い出すんだ。パレスチナから追い出されたことを思い出すんだ。だから辛いんだ。」

またリームという女の子は彼女の祖父がピースサインをしてアルコッツと書いてある紙を指差している写真を指しながらこう言った。
「ビザがないからパレスチナ(アルコッツ)に帰れないの。この写真を見ると故郷を思い出すの。」

私たち日本人を快く笑顔で迎えてくれて、嬉しそうにカメラを手にして無邪気にはしゃぐ彼らが暗い表情をするのを私は初めて見た。


今回の私たちの旅をコーディネートしてくださった高遠さんによるとパレスチナ難民の子供達の中には、パレスチナでの記憶がほとんどなく、故郷のことは親から聞くしかない子供がたくさんいるそうだ。


私たち日本人は初対面の場合気兼ねなく出身はどこ?と聞き、そこはどんなところ?という会話を当たり前のようにする。

それがこの国、この子供達の中では当たり前ではないのだ。

故郷を自分の目で見ることができない、そこに吹く風を感じることができない、そこ独特の匂いを感じることができない。


彼らはどれほど複雑な思いでこの写真を撮ったのだろうか。


またイラク難民の子供達の中にはイラクからヨルダンに来てからまだ日が浅く、心の傷が深い子供がたくさんいる。カウンセリングを受け、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と戦っている。

目の前で父親が射殺された子供、自分を含めた家族全員に銃口をつきつけられた子供…。

彼らが心に受けた傷は私たちの想像をはるかに超えるものだろう。


高遠さんは私たちにこのようにおっしゃった。
「人の痛みを自分の痛みとして感じた時、それぞれのタイミングで動き出せばいい。」


この一週間のヨルダンでの旅の中で、ここには記しきれない貴重な体験をたくさんさせていただいた。


この経験を日本でどのように人に伝え、どのように動きだすか。


ヨルダンでの旅は明日で終わりだが、私の中で何かが動き始めている。

イベント局 2年 家市佳奈

2011年09月13日

変化を眺める

ここ、ヨルダンに来てホテルの前の大通りを歩いていると、女性がブルカと呼ばれる布をまとった姿が目に入る。気温は優に30度を超え、見ている側が暑いくらいの様相だ。日本にいると、生活の中で宗教色を見ることは少ないので、とても新鮮である。

しかしながら、僕は、こういった宗教文化というものが、ヨルダンではこの数年で、かなり廃れつつあるのではないか、と考えている。宗教には、様々な形があり、派閥があり、そのそれぞれに異なる風習、文化がある。しかし、今その形態がネットの発達で中道化しているからだ。90年代半ばに、インターネットができ、携帯電話が普及し、近年のSNS(ソーシャルネットワークサービス)の発達は著しい。
首都アンマンの街中の青年の服装は、スキニージーンズに、ピッタリとしたTシャツと、日本とあまり変わりないし、出会った若者は皆、フェイスブックを使って、海外の人びとと、交流していた。

僕が泊まっているホテルの受付のヨーセフはこう言った。
「個人の自由さ。その人の好きなようにすればいいんだ。」

このような、文化のグローバル化が、良いことか、悪いことかという議論を別にして、確かに文化が急激に変化している様子を、ヨルダンにいて、この目で見ていることが今はただ、とても面白い。

カンボジアのガンディー

マハ・ゴサナンダという人がいます。内戦直後のカンボジアを歩き、非暴力による平和の実現を訴えた僧侶です。人は彼のことを「カンボジアのガンディー」と呼びます。

生前、彼は寺院を訪れた人に言いました。
「あなたがもし知性だけを持って世界の中を動くなら、片足で歩くことになる。もし共感だけを持って世界の中を動くなら、片足で歩くことになる。だがもし、知性と共感とをともに持って世界の中を動くなら、知恵を得る。」

この言葉を聞いて、ギクッとしました。「自分はいままで、共感という片足だけで世界を歩こうとしていたのではないか。」そんなことに気付かされたからです。

去年のスタディツアー、僕は大きな期待を抱いていました。『百聞は一見に如かず』という言葉を信じ、「とりあえず見てみないと始まらないっしょ!」と、事前知識もあまり無いまま、意気揚々とカンボジアへ乗り込んだことを覚えています。

いざ現地に到着して、物乞いの子供に会って、ショックでした。ゴミ山を見て、衝撃を受けました。でも、どうすれば問題を解決出来るのか、何が根本の原因なのか、全然分かりませんでした。結局それらの衝撃は、帰国して時間が経つに連れて段々と薄れ、消えていきました。

たしかに、現地に足を運び、生で見たものや感じた気持ちはとても大切です。しかし、例えどんなに高尚な考えや熱い気持ちを持っていても、知識の伴わないそれは、何の役にも立ちません。言い方は悪いかもしれませんが、知識が伴わない感情はちょっとしたブームみたいなもので、時間が立てば風化してしまう頼りない力であり、問題を解決へ導くことは決してないと思うのです。何かの問題を解決したいと願うなら、まずは正しい知識、つまり「知性」という武器を持つこと。これを用いる原動力が「共感」というもので、この両輪が揃ってこそ、問題に立ち向かう力が発揮されると思います。

明日から始まるスタディーツアーは、ゴサナンダさんの言葉を借りるなら、「知性」を得ることが大きな目標です。現地で活動するNGOの方や、ビジネスマン、孤児院の子供達、大学生など、様々な目線でカンボジアを見ている人々と交流することで、まずはカンボジアを学ぶこと。それから、自分達に何が出来て何をするべきなのか、自分なりの意見を持つこと。この2つを目的として、スタツアを実りあるものに出来るよう、メンバー一同頑張りたいと思います。

【国際局2年 原 望】
posted by S.A.L. at 11:09 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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