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2011年09月20日

ジレンマ

カンボジアについてから早1週間がたった。街の汚さにも慣れ、ミネラルウォーターで歯を磨き缶ジュースにストローをさして飲む生活にも違和感がなくなった。
自分は恥ずかしながらこのスタツアが初めての海外経験で見るものすべてが新鮮に映った。アンコールワットの朝焼けは言葉に表せないほどに綺麗で、現地の子供たちとのサッカーではなけなしの運動神経をフル活動させ夢中になって遊んだ。

今日はシェムリアップを出発し、かものはしプロジェクトのコミュニティーファクトリーを訪問してきた。かものはしプロジェクトというのは人身売買を撲滅するために最も貧困な地域に絞った支援をしているNGO団体であり、コミュニティファクトリーではたくさんの若いカンボジア人の方々が働いている。

カンボジアで人身売買というのはとても深刻な問題であり、貧困層の子供や女性たちがその被害にあっている。騙されて売春宿に連れていかれ心と体に大きな傷を残している。
そうした現状を変えるため立ち上がったのがこの団体である。

そこで耳にしたのはいかにカンボジアの方々に仕事を提供するのが難しいのかということだ。現地の人に話を聞いて感じたことだが日本人とカンボジア人の間には大きな国民性の違いが存在する。カンボジアには「その日暮らしの生活ができればいい」「故郷で暮らすことが大切」といったような我々とあまり馴染みがないような価値観があるようだ。そのため都会に出てがつがつ働くといったような考えを持っている人は少なく、貧困から抜け出せない原因の一つとも考えられる。

しかしだからと言ってその価値観が間違っていると決めつけることはできない。そもそもみないろいろな価値観を持っているのであって、その一つ一つを尊重するべきである。そこで思ったのが途上国を先進国が支援する際に先進国の価値観を押し付けてしまっているのではないかということである。

もちろん人身売買のような非人道的なことはなくすべきであるし、途上国ではまだまだ先進国からの支援が必要であることもこの目で確かめてきた。だが自分たちのやり方を無理やり押し付けるのではなく現地の価値観を大切にしながら行うというところに支援の難しさを感じた。


途上国の方々の方々には豊かになってもらいたい。

だがその土地らしさを失ってほしくはない。



そうしたジレンマを感じているうちにバスは目的地のプノンペンへと到着した。

国際局1年 片山雄太
posted by S.A.L. at 04:58 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平和の形〜CROSSROAD〜

今あなたの隣にいる人は、過去にあなたの大切な人を殺しているかもしれません


そう聞いたあなたは、その隣の人と笑いあえますか?
いや、私にはなかなか難しい。もしその人が殺したと確信が持てればその人を殺したくなる。殺すまではいかないとしても、その人にはもう笑顔は見せられなくなるでしょう。


憎しみの連鎖

人間が感情を持っている限り、この負の連鎖が途切れることはない。
そう思っていました。そう確信していました。



カンボジア北西部の村、タサエン。ほとんどの家庭に電気、ガス、水道が通っておらず決して発展しているとは言えませんが、のどかで居心地の良い村です。


この村で私の考えは打ち砕かれました。


元ポルポト軍兵士と、敵対していた政府軍兵士。両者が共生している村。
言い換えれば、かつて殺し合いをした者同士が生活している村。
のどかに見えるこの村は、凄惨な過去を抱えている村でした。


しかし、私の考えを打ち砕いたのはこの状況ではありません。

村人達の笑顔でした。


一緒に暮らしているだけでも信じがたいのに、その村の住民達に笑顔は絶えません。
村人のお話を聞いても、
「殺しあったのは昔の話。今は一つのカンボジア国民として仲良くやっている。」
と言います。


衝撃でした。

一度憎しみが生まれれば、その憎しみを抱いている人間が死ぬまでその憎しみは消えない。その憎しみが子孫に受け継がれている例も世界には多く見られます。


しかし、そんな考え、事実を吹き飛ばすかのような平和。
歩み寄ることで得られた平和。
凄惨な過去を乗り越えた「平和」の形がこのタサエンにはありました。


そんな村、タサエンを舞台にしたドキュメンタリー「CROSSROAD」がいよいよ10/7(金)に公開となります!
詳細につきましては、HPに載せておりますのでお手数ですがこちらからお願い致します。
http://crossroad-salfilms.com/



【文責:sal films 助監督 青山明弘】
posted by S.A.L. at 04:23 | Comment(0) | CROSS ROAD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月19日

深く思いやること

旅に出ると時々わからなくなる
それぞれの国の習慣やタブー
何が許されて何が許されないのか

このヨルダンスタディーツアー中、私は何度それを思ったことだろうか

私はあるイラク難民の女性の家に招かれた
フダというその子は私と同じ19才、少しシャイだがとても大人っぽくてとてもキレイな人だ

フダと一緒にRainbow St.というマーケットをぶらついた後、私達はフダの家に招かれた
夜11時になろうともいう時間、
日本人的感覚からすればこんな夜遅くに十人という大人数で家にあがるのはとても迷惑なこと
私達は玄関先でさよならを言おうと決めていた

しかし家に着くとフダの母が現れ、兄、妹まで出てきて熱心にあがっていけという
私達は断りきれずに靴をぬいでリビングへ入ってしまった

とても裕福とは言えないフダの家庭、それでもフダの母は2つのコップに水をいれ、それをまわして飲むようにいった
結局10分程談笑した後、私達はそろそろ戻らないといけないと言い、無理やり家を後にした


フダの家からホテルまでの帰り道、私は考えた

私達はこんなに早くフダの家を出てきてしまって良かったのだろうか
私達は他人の家に長居することは失礼だという日本的感覚を自己満足としてフダに押し付けたことにはならないか
神妙な顔で私達が日本語でいつ帰るべきか相談している様子を見てフダは何を感じただろうか


他にも行く先々で勧められるアラビアコーヒーを口に合わないと断ってしまうこと、せっかくアラブ人と楽しく話していても水タバコを吸おうと誘われると私は結構と席を立つこと、ムスリム女性に好きな人はいるかと聞いてしまうこと

私達はこのスタツア中にどれだけの人を傷つけてしまっただろう

そう考えていることこそ日本的感覚、私達は彼らにとって外国人なのだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだ

しかしこのスタツア中に見てきたイラク難民やパレスチナ難民が抱えている多くの問題を解決していくにはこうした重すぎる程の気配りも必要だと私は思った

互いに違う立場の者同士、違う経験をした者同士にはそれぞれ自分達のルールや習慣がある

どんなにがんばっても完全に相手を理解することはできない、なぜなら既に自分達のルールがあるし、何より他人の立場や経験を実際に体験することができないのだから


だから
体でできない分を心で補う


このスタツアを通じて私はどれだけ深く思いやることができただろう

何が許されて何が許されないのかその答えは自分がどれほど相手の心に深く寄り添えたかにあるのだと思う


広報局1年   花上愛祐美



忘れられない思い出




あなたにとって、忘れられない思い出は何ですか?




ヨルダンスタディーツアーも、早いもので最終日となりました。
私は今、この2週間の出来事を思い出しながらブログを書いています。


私たちは昨日、イラクの支援活動を行っている高遠さんにイラク戦争のお話を聞く機会がありました。その中でも私がもっとも印象的だったお話を書きたいと思います。




あるイラク人の家族が、国内情勢が悪化したために隣国のヨルダンへ亡命をしようとしました。その家族は父、母、当時15才と10才の男の子、5才の女の子の5人家族です。


ヨルダンに亡命することはできましたが、途中米兵に引き留められ、5才の女の子を含む全員が胸に銃口を突きつけられ尋問されました。



3年後、一番下の女の子が8才になったとき、彼女はこんな絵を描きました。


“ベッドの上で銃をかかえ、血を流しているお姫様。窓から微笑を浮かべ、お姫様を見つめる人物。”

女の子に、絵の意味を聞くと
「お姫様は私。銃で殺されたの。窓から私を見ているアメリーキー(アメリカ人)に。」
と答えました。




銃を胸に突きつけられたとき、5才の彼女はどれほど恐ろしい思いをしたのでしょうか。

表面的には見えにくい彼女の心の傷は、想像をはるかにこえて深いもので、きっと一生消えることがないでしょう。


彼女のケースが珍しいことではなく、誘拐されたり暴力を受けたイラク難民の方々が数えきれないほどいるのです。


そして、それら体験は、それぞれ数えきれないほどの悲しみや心の傷を残します。



世界中の人たちの忘れられない思い出が、幸せな思い出ばかりの世の中が訪れますように。


(広報局1年矢口絵理)

ポル・ポトの正義 子どもたち


 カンボジアに来て6日目、やっとうだるような暑さにも慣れて、私たちは日々の活動を行っています。今日は、アンコール・ワットやその他遺跡群の観光に行きました。そこで見た光景は―ありきたりな表現ですが―言葉にできないほどすばらしいものでした。アンコール・ワット全体を照らす朝焼けの壮大さに圧倒され、壁の隅から隅まで精密に施されているレリーフからは、当時の人々の息遣いが伝わり、とても感動しました。しかし、壁にあった弾丸の痕を眼にしたとき、この地でつい最近まで激しい内戦があったことがふと思い出され、とても悲しい気持ちになりました。トゥールスレン博物館や、キリングフィールドで見たおぞましい光景が鮮明に思い出され、胸が苦しくなりました。(これらの場所はポル・ポト政権が行った虐殺の歴史を展示し、ポル・ポトが行った数々の残酷な行為を後世に伝えているものです。) 私はもちろんポル・ポトの行った行為は決して許されるものではないと思います。しかし、それと共に私にはひとつだけ思うことがあります。それは、


「ポル・ポトは、自分の理想とする社会を実現するため、つまり自らの正義のためにこのようなことを行ったのではないだろうか。」


ということです。ポル・ポトは初めからカンボジアを破壊しようとしていたわけでは、決してないのです。むしろ、カンボジアを守るために―ベトナムその他の国から自国を守り、理想とする原理共産主義を断行するために政権を握ったのです。ただ、その思想自体に大きな欠陥があり、また、その為に使われた手段があまりにも強引で、幼稚でした。その為にカンボジアの伝統的な社会システムは破壊され、多くの人々が命を落としたのです。この事実から、私が言いたいことは、


「人は簡単に間違った正義を選ぶ。」


ということです。しかも、それは間違いだと分かるのは往々にして結果が出てしまった後なのです。現在、虐殺を伴った正義が誤りであることは、歴史が証明しています。しかし、将来起こる課題について、人はこれからも多くの間違った正義を選択していくのだろうと思います。私たちにできることは、そこから学び、二度と同じ誤りが起きないように努力していくことだけです。


 話は変わりますが、私は今回のスタディーツアーで、孤児院を訪問しました。そこで出会った子供たちは、笑顔が素敵で人懐っこく、とても孤児であるようには見えませんでした。私は全くかわいそうだとは思いませんでした。ただ、「子供たちの生活をもっとよくしてあげたい。もっと子供たちを楽しませてあげたい。」と純粋に思いました。どうすればいいか、と思ったときにある二つの体験を思い出しました。一つは、前日に教育支援を行っているNGO団体で伺った話で、「カンボジアでは先生の質が低く、また設備も十分に整っていないため、実験などの体験学習があまり行われていない。」というものでした。もう一つは、小学生のときの科学実験教室で、ペットボトルロケットや万華鏡の作成に夢中になって取り組んでいたときのことでした。その二つの体験から、私は科学実験教室をカンボジアで開こう!と思いました。そうすれば、普段はやっていない体験学習もできるし、何より子供たちが楽しめると思います。私は後期からこれをプロジェクトとして始動させようと決意しました。


長くなりましたが、最後まで読んでくださって、ありがとうございました!


【国際局二年  高井啓輔】
posted by S.A.L. at 05:03 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月18日

カンボジアスタツア5日目

 今日でカンボジアに来て5日目です。

 これまで私たちはたくさんのカンボジア人に出会いましたが、共通して私が思うのは生きる活力にあふれているということです。
毎日を生きるのに必死で、例えその生活費を稼ぐ方法が生産性や効率が悪かったとしても、私はよっぽど日本人より人間らしさがあると思います。


 約30年前、この国の文化、知識、秩序など様々なものが破壊されました。
現在街角に出てみると、0の状態だったことが信じられないほど復興しています。
道などまだまだ十分に舗装されておらず、中心部から少し離れるとすぐ田舎になってしまいますが、日本人が抱いているカンボジアのイメージよりはだいぶ豊かなように感じます。
決して清潔とは言えないけれど、その町並みの中には人間味があります。


 また、特にそれを感じたのは、孤児院の子供たちです。
彼らの中には幼いにも関わらず日本では考え難いどん底を生きてきた子もいます。
でも、何故かかわいそうという同情心を抱かせないのです。人懐っこく抱きついては愛くるしい笑顔を見せてくれます。
むしろ他のカンボジアの子供たちより幸せそうに見えるくらいです。
子供たちに将来の夢を聞いてみると、そもそも職業をあまり知らないため、種類は限られているものの、それぞれ夢があるようです。
実際、飲み込みが異常に早かったり、ダンスや歌が抜きん出て上手いなど、才能がある子がたくさんいます。
きっとあの子供たちなら自分の興味のある方向の職業を手にすることができるでしょう。
あの子供たちが生きがいのある仕事ができる、そんなカンボジアの未来を願うばかりです。

このようにどん底の状態でも生きようとする人々の力が、これからのカンボジアをひっぱっていくのだと思います


 しかしながら、この国に来て、自分の中で矛盾を感じることがあります。
シェムリアップやプノンペン、特に観光地では決まって物乞いや、必死に物を売る子供たちがいます。
孤児院の子供たちの幸せを願う一方で、他のそのような子供たちには何か物を買うことすらしません。
救う人を選ぶわけではないけれど、貧しい人々全員に手を差し伸べることができない状況、この私の中での矛盾が、今の世界の現実なのだと思います。
皆誰かしらの幸せを犠牲に豊かさを得ている、そんなことまで考えてしまいます。
 

 たった数日ですが、様々なことを考えさせてくれる、このカンボジアにいるのもあと少しですが、一日一日を大切に何かを確実に学んで帰りたいと思います。


                             
2年 岡田朋子
posted by S.A.L. at 17:19 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

I AM IN カンボジアです

こんばんはー!!
日本より2時間遅いカンボジアからお送りしています竹渕慶でーす^^!

SALに入って初のスタツア、念願のカンボジア。
飛行機がプノンペンに到着したと同時に私は夢をひとつ叶えました!
地元発、成田行きのバスが出発する直前にパスポートを忘れたことに気づき
そんなこんなで搭乗手続き締め切りの15分前に空港に着いてみんなをヒヤヒヤさせた私ですが(本当にすみませんでした☆)、
スリリングで素敵な幕開けだったと思います!時間に余裕を持つことに越したことはないですね!
いやーほんとによかった!

カンボジアですが、今のところ私は日々刺激的で目をキラキラさせる毎日を送っています。
私は今日、4日目のブログ担当ということですが、
今日のことは書きません。
(ちなみに今日はトゥールスレンとキリングフィールドに行ってきました。
もちろんポルポトの大虐殺については知っていたとはいえやはり実際に肌で体感するとその衝撃と言い知れない悲しみというか苦しさは本当に大きかったし、思ったことはたくさんあります)

3日目の昨日、プノンペン市内にあるCUCHMAという、Make the Heavenさんの支援している孤児院に行ってきました。
「世界がもし100人の村だったら」という本、そしてテレビで放送されているドキュメンタリー番組を知っていますか?
大学での私の夢が「カンボジアに行くこと」だったという理由は、高校生の頃にこの番組を見たことにあります。
この番組は年に2回放送される、様々な途上国における貧困層の生活を追ったドキュメンタリー番組なのですが、
一番最初に見たのがカンボジアのスラム街で生活する子供たちを特集したものでした。
途上国のスラムなどに生きる子供たちの生活をテレビで見るのはもちろん初めてではなかったのですが、
この時なぜかそれまでになかったほどに大きく心を揺さぶられ、
「ここに行って自分の目で見たい」と強く感じたんです。
だから、2日目にバサックスラム、3日目に孤児院を訪れることができて、この2日間は私にとって本当の意味で夢のような時間でした。

私達は、孤児院の子供たちも通う午前中の公立小学校の補修授業が終わるのを待って孤児院に行ったのですが、授業が終わった途端孤児院の子供たちが一斉に駆け寄ってきて我先にと私達の手を取り孤児院まで案内してくれました。
大通りを渡り、細くてくねくねとした道を少し進んだところに孤児院はありました。
2階建ての小さな建物で、その造りはすごく質素。雨が降るとあちらこちらで滝のような雨漏りをするような建物でした。
ほとんどの子が5〜13歳という中で、ひとり最年長で16歳だという男の子がいました。
彼は2年前にこの孤児院にきたそうで、今は学校で英語を勉強しているとのことでした。孤児院にいる子供たちはMakeさんの支援で日本語を勉強しているためみんな簡単な日本語を聞き取りそして話すことができるのですが、ここで日本語を勉強することができるのは小学校に通う小さな子供たちだけ。だからここに来た時すでに14歳だった彼は、日本語を学んでいないため日本語が他の子供たちよりも苦手なようでした。
でも、将来の夢を聞いてみると、「カンボジアに来た日本人観光客の通訳」と彼は答えました。だから、今は勉強できないけれどいつかちゃんと日本語を勉強して夢を叶えたいそうです。とびっきりの笑顔で話す彼は、日本で苦労もせず毎日のうのうと大学に通う私の何倍も輝いているように思えました。
遊びの途中に子供たちに少しインタビューをしたのですが、普通に明るく元気にはしゃぎ回っている子がここに来る前に父親を亡くし母親は子供を置いてどこかへ消え、残された兄弟だけで近所の田んぼの手伝いをしその日食べるためのお金を稼いでいたとか、どの子もその振る舞いと表情からは想像のつかない過去を持っている子たちばかりでした。
今回ここを訪れるまでは、やっぱり孤児なわけだから、親に会いたい気持ちが強いのかな、と思っていたのですが聞いてみると会いたいは会いたいけど元の生活には戻りたくないというのがここで暮らす子供たちの本音なようでした。Makeのスタッフさんも言っていましたが、子供たちは私達が思っている以上に自分の生い立ちやここに来るまでに至った経緯についてはドライなようです。
孤児院にもよるのでしょうが、どの子も過去の環境が過酷であっただけに、衣食住、それに加えて勉強までもすることができる今の孤児院での生活を本当に幸せに感じていてきっとずっとここにいたいと思っているんだろうなと感じました。
予想していたよりも何倍も何倍もエネルギーとパワーと思いやりに満ち溢れていて、キラキラしていた孤児院の子供たち。最初から最後まで、この子たちがかわいそうだとは一瞬たりとも思わなかった。
この子たちの将来が心から気になるし、純粋にそれぞれの夢が実現してほしいと思う。
本当に感動とパワーと私にとってはそれ以上のものを与えてもらった2日間だった。
でも、ここにいる子たちは運よく救われたほんの一握りの子たちだということも絶対に忘れない。

ではあと5日間元気に楽しみまーす!

*昨日書き途中で停電になってしまいアップできなかったので一日遅れで投稿してます!

イベント局2年 竹渕慶
posted by S.A.L. at 00:20 | Comment(1) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月17日

見てほしい景色

ヨルダンに来て早くも9日間。緑1割茶色9割の景色、雲がなくカラッと晴れた青い空、そして「ジャバニー!」と呼びかけてくるたくさんの声にもだいぶ慣れてしまいました。
 ただ、ここ2日間はまるでちがう国、大袈裟に言ってしまえばちがう星にまで来てしまったのではないかという感覚。私たちは昨日今日とヨルダン南部に位置するワディラム砂漠に行ってきました。
 ジープで少し進めばそこは文字通り無人、映画に出てきそうな岩山と、所々にかろうじて草が生えているだけ。遊園地のアトラクションのようなジープに乗りながら、ロッククライミングや遺跡のスポットを巡っていると、あっという間に夕方になっていました。泊まるキャンプ場に着くと私たちは岩に登り、日が沈むのを眺めることに。太陽の位置が低くなると空は水色からオレンジへと同化していき、遠くに連なる岩山のシルエットがはっきりしてきます。映画で泣くことはあっても、景色がきれいで泣くという経験は初めてでした。
 太陽が沈むまでの20分間、この貴重な時間に、何について、そして誰について考えようと思ったとき、頭に浮かんできたのは、この旅で出会った子どもたちでした。
 FoMや今回試みた絵のプロジェクトで最も強く感じたこと。それは、「この子たちの純粋な好奇心を消すようなことが絶対あってほしくない」ということです。カメラを初めて持ったときのキラキラした目や、カラフルなクレヨンを存分に使った作品を見ていると、彼らはこれからもっともっとたくさんの「初めて」や「不思議」を経験していくのだろうし 
、ぜひそうであってほしい。きっときれいな景色を見たり、ものを作ったり、いろんな人と出会ったりするわけで、その一貫と言ったらおかしいかもしれないけれど、彼らにもこの場所からこの夕日を見てほしいと思ったのです。イラクでお父さんを拉致されて命からがらでヨルダンに来た子にも、自分の生まれ故郷に行ったことがないパレスチナ人の子にも、そして貧困に苦しみながらもたくさんの難民と共存していかなければならないヨルダン人の子たちにも。教育の問題を解決していくのは簡単ではないし時間がかかるけれど、その間に彼らの感受性がすり減ることが、どうかありませんように。自分はもともと情操教育に興味があったのですが、今回直接子どもたちの顔を見て、心にずーんと重く響くものがありました。それはおそらく彼らにわいた愛情であり、逆び彼らの将来への危機感でもあるのかもしれません。
 
私は正義感が強い人間でも、特別思いやりのある人間でもありません。今、こんなふうに人のために心から祈るようになれたのは、ほかでもない、ヨルダンで出会ったすべての子どもたちのおかげです。日本に帰っても夕日を見るたびに、自分が一度でもこんな優しい気持ちになれたことを思い出したい。そして、彼らの将来を「カラフル」にしていくことに、自分が何らかの形で関わっていけたらと思います。

イベント局 1年 原菜月


笑顔

  ぎらぎらの太陽に、夜でも鳴り響く車のクラクション。毎朝街中に聞こえるコーラン、レストランから漂う水タバコの香り…
  2週間のヨルダンスタツアも折り返し地点を過ぎた頃から、このようなヨルダンの日常に、驚くほど馴染んでいる自分がいます。

  昨日、私はイラク出身のとある少年の家を訪れました。彼は、とにかく笑顔が素敵で、映画好きの15歳。現在は、首都アンマンから車で少し走ったところで、母・弟2人・おばさんと暮らしています。
彼の父は、彼が7歳のとき、イラクのバクダッドで殺されました。当時その地域で宗教的マイノリティーであったために、仕事の帰り道、何者かによって銃殺されたのです。数日後、彼自身もおばさんと一緒にいるところ、連れさられそうになったことがあります。それを機に、安全を求め、家族でヨルダンに移ったのです。
  彼の母は乳ガン・骨肉腫・肝臓ガンにおかされ、薬治療を受けています。薬の副作用により髪は抜け落ち、右足全体に痛みが残っています。
最も衝撃を受けたのは、実はあの笑顔の少年、そして兄弟全員がサラセミアという病気だったのです。
国連からの支援は行き届いておらず、薬を購入する十分なお金がないために、母の分だけかろうじて、しかし3人の薬は購入できずにいるのです。

  私は思いました。世の中には、戦争をしたり武器を作るお金はあるのに、病気を治すためのお金が十分にないなんて…
  純粋に、家族みんなで暮らしたいと、ただそう願う家族に立て続けに病が降りかかるなんて…

  それでも、父の代わりに、母のためにと、率先して家事を手伝い、弟を守り、母を守る15歳の彼。母と話している彼の顔には、今も忘れられないくらいまぶしい笑顔が輝くのです。

  ワディラム砂漠で、沈んでゆく太陽を見て、私は彼の笑顔を思い出しました。まるで太陽のように周りを明るく照らし、人々を笑顔にできる彼を思い出して、涙が出ました。
  私はこの旅で、たくさんの笑顔に出会っています。私ができることは、この笑顔を消さないよう、全力で学び、感じ、伝えることだと思いました。日本に戻ったら調べたいことがたくさんあります。もっと知識を増やして、またこの地に来たいです。そして残り2日、彼の笑顔を胸に、ヨルダンライフ充実させます。

広報局1年 木藤真夕

2011年09月16日

わからない。


ヨルダンで一週間を過ごし、陸路で国境を越え、僕は今イスラエルのエルサレムにいる。




国境を越えるとき、イスラエルの出入国審査は厳しいと言われていたので、スタツアに行くことが初めてだった僕は少しばかり不安を持っていた。

結局審査は少し時間がかかったもの意外とスムーズに進んだ。

しかし、近くにいたパレスチナ人達は別のルートを通され、厳重に審査されていた。

同じ人間ながら明らかに扱いが違い、話には聞いていたもののこんなにも差別されるとは考えていなかった。





このようにイスラエルではパレスチナ人が差別されることが多くある。




僕は一昨日エルサレムの旧市街に行った。

そこはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の3つの宗教の中心地であり、半径1kmの間に争い合った3つの宗教が共存している場所である。

そして、イスラエル国内では、パレスチナで生まれた人間がイスラエル側に入ることができない。

つまり、イスラエル側にあるエルサレムには宗教に関わらずパレスチナで生まれた人間は入ることができないということだ。

これは本来イスラエルとパレスチナが共有すべきエルサレムをイスラエルが占領してることから始まっている。





イスラエルでのパレスチナ人の差別の元をたどると、
確かにユダヤ人は過去にホロコーストにより大量虐殺され、その怒りを今でもひきずっていたり、また、二千年もの間ユダヤ人国家を作りたいという思いを持ち続けていたということもある。

またパレスチナ人がイスラエルでテロを起こすという事実もある。

しかし、ホロコーストの復讐としてパレスチナ人を差別することは標的が違うとも思うし、国を作るときに他の宗教を迫害する必要もなかったと思う。

イスラエルがパレスチナ自治区でテロと似たようなことをしているという事実もある。

そしてこの問題はイギリスやアメリカなどの先進国による戦略も絡んでいて、この国だけの問題ではない。





結局、どちらが正しくて、どちらが悪いのかを決めることは、僕にはできない。

できないというよりは、『わからない』。

この『わからない』という答えが今の現状を表していると僕は思う。





この国のこの状況はいつか変わるのだろうか。

それは良い方向に進むのか、悪い方向に進むのか。

いつかこの『わからない』がなくなりますように。


渉外局1年  押尾 聡
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