2011年07月28日

ひとりひとりにできること



数日後に迫った楽しい楽しい夏休みに思いを馳せつつ、
テストや課題に追われている現実に立ち向かう広報局1年矢口絵理です^^


先日、先輩方と訪れた震災ボランティアについて書きたいと思います。


――――――――


私は先週の土曜日、初めて震災ボランティアに参加しました。


震災後から、「何か自分にできることがしたい!」
とは思っていたものの、中々行動に移せませんでした。


先輩が震災ボランティアに行こうと呼びかけてくれたのをきっかけに、
被災地の現状を見て、自分のできることをしに行こう!
と思い、参加することを決めました。


23時に横浜を出発し、バスに揺られること8時間。
津波の被害が大きかった宮城県石巻市に到着しました。


内陸部の方は、コンビニエンスストアや飲食店なども復旧していました。
しかし、少し車を走らせたところにある沿岸部は、
震災から4ヶ月半経った今でも止まったままの信号や、
何段にも積み重ねられた車、取り壊されている途中の民家がありました。
自分の目で見てみても、これが本当に現実なんだ、
と理解するのに時間がかかりました。



私たちが行なったボランティア活動は、
民家の畑に津波によって流れてきた泥(といっても、時間が経って乾いていました)と、
その泥の上に生えてきた雑草を除去することでした。


ボランティアのスタッフさんが言うには、
「自分の家の畑に流されてきた泥は、いわば自分の家で出たゴミのようなもの。
行政は手を貸してくれないので、自分の家で片付けるしかないんだよ。」
とのこと。自分の家で片付けなければならないのだけれども、
あまりにも膨大すぎる。そこで、我々ボランティアの力が必要となるのです。



一日ボランティアをしてみて感じたことは、
人ひとりが一日で手伝えることは本当に限られていること。
自分の無力さを感じずにはいられませんでした。


でも、そんなひとりひとりの力が集まれば、大きな力になります。

今回のボランティア活動においても、
40人弱のひとりひとりの力が合わさって、ひとつのボランティア活動となりました。


被災地では、ひとりひとりの力が、まだまだ必要とされています。


震災関連のテレビ報道も減少し、被災地から離れた私たちの生活は、
「日常」に戻りつつあります。


しかし、目をそらしてはいけない、
忘れてはいけない現状が、東北の被災地にあります。
7月時点の避難者数は、未だ9万人にも及んでいます。


ボランティアに限らず、自分の住む町にいながらできる支援もあります。
今一度、ひとりひとりが「自分には何ができるか」
を考え、行動していくことが 被災地復興への道だと思います。



私は、ボランティア活動が被災地の方々に必要なくなる日まで、
被災地へ足を運び続けたいです。




広報局1年矢口絵理
posted by S.A.L. at 01:15 | Comment(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月24日

私を魅了する土地

じりじりと照り返す太陽。むっと、じめっとする空気。





私は今年もインドネシア・ジャカルタのカンポン―路地裏の住まい へ出かける。


舗装のされていないぼこぼこ道路と土埃を被った床の住まい。
私達が訪れるレンテンアグン町のカンポンは、開放的な家たちが建ち並び、人々はコミュニティーとしての
結束を強めている。
どこかノスタルジックな雰囲気を感じずにはいられない。

*

毎年、我が研究会では、ジャカルタのレンテンアグン町の○△隣組での調査を行なう。
我が研究会で以前、大変興味深い調査を行なっていたのをここで紹介したい。


「レンテンアグン町○△隣組におけるインフォーマルセクターの仕事に対する意識について」

インフォーマルセクターとは、大辞泉によると、
非公式部門。開発途上国にみられる経済活動において公式に記録されない経済部門のこと。
靴磨き・行商などといった職種から構成されている。

と記載されている。
要するに、定職についていない自営業者のようなものである。

靴磨きや屋台商、ゴミ収集人、洗濯委託業など、その職種は様々だ。


彼らは一定の収入がなく、不安定な生活を「強いられている」
私は、彼らは限られた資本所有の故に、インフォーマルセクターの仕事にしか従事する選択肢がない


と思っていた。

その以前、行なわれた調査によると、

     
           彼らは「選択出来ない」のではなく、自ら選んでいる




アンケート調査と追跡調査によって、データ採取がされた結果である。


自由な時間を確保出来るから、仕事に縛られたくないからと様々な理由が挙げられたのだが、
インドネシアのレンテンアグン町の居住するインフォーマルセクターの人たちは、
およそ9割、自らの意志でその仕事を選び、従事していた。

私にとって驚く結果であった。
もっといい家に住んで、いい家具や車を所有して、おいしい食事をしたい―


それが万人の願いとばかり勘違いしていた。

彼らの家々は
路地裏の、ぼこぼこ道路にひしめき合うに建てられた「おんぼろ」自宅だ。
寝床は薄汚い布の上、暑い夏を冷やす扇風機などない。
汚染された井戸水を汚れているとも知らずに生活用水として活用する。

とてもじゃないが、いい暮らしをしているとは言えない。

彼らはよりいい住まいよりも、カッコイイ最新のバイクを所有したいと考え、
より良い衣服を身にまとうよりも、最新型のテレビを欲しがる。


仕事の時間よりも、プライベートや宗教の時間を優先する。

お金で得る地位ではなく、宗教的社会権威地位の方が尊重される。


*


時代が変われば、価値観も変わる。

その時、同じ時間を共有して初めて感じる空気。


だから私は行く。何度も、同じ土地へ、その広がる異文化に魅了されて。



そこへは、対話が待っているのだから。






【文責:広報局4年 木本佳歩】
posted by S.A.L. at 23:01 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月21日

北鎌倉巡り

こんにちは。
広報局1年の立山蘭です。初めてのブログで少しドキドキです。


毎日が蒸し暑い中、
節電という言葉が余計に私たちを暑くしているように感じる。
このような中でみなさんはより涼しい場を求めてはいませんか?





自然の風にそそられながら、凉しむことができる場があるのです!
おととい17日に私は大学の授業の課題で北鎌倉を訪れました。

北鎌倉は外国人観光客やカップルも多く訪れる日本の風情あるところ。
駅周辺には寺院がたくさんあります。

その中で「明月院」のなかにあるすばらしい空間を紹介したいと思います。
http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/ameigetuin.html

それは、明月院の中にある本堂。縦長の和室であり、窓枠が丸くきりとられている。
そのまるい窓は月を思わせ、その先に美しい自然が見える。

窓が額縁の役目をして、それはまるで絵画の中にいるよう。
和室が筒抜けとなっており、縁側をはじめここはとても涼しい。
鳥や虫たちの声もこころを癒してくれる。



自然を横目にお昼寝をしたいな〜



そう、感じさせるすばらしい空間。
似たような空間が海外にもある!それは、「ガゼボ」
人は似たような空間を求めるもなんだと感じた。
海外に行く機会があれば、ぜひ異なる涼しさを感じたいと思う。

みなさんもこの夏休みに涼しいスポット探しをしてみてはいかがですか?
posted by S.A.L. at 23:49 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

北鎌倉巡り

こんにちは。 
毎日が蒸し暑い中、
節電という言葉が余計に私たちを暑くしているように感じる。
このような中でみなさんはより涼しい場を求めてはいませんか?

自然の風にそそられながら、凉しむことができる場があるのです!
おととい17日に私は大学の授業の課題で北鎌倉を訪れました。

北鎌倉は外国人観光客やカップルも多く訪れる日本の風情あるところ。
駅周辺には寺院がたくさんあります。

その中で「明月院」のなかにあるすばらしい空間を紹介したいと思います。
http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/ameigetuin.html

それは、明月院の中の本堂。縦長の和室であり、窓枠が丸くきりとられている。
そのまるい窓は月を思わせ、その先に美しい自然が見える。

窓が額縁の役目をして、それはまるで絵画の中にいるよう。
和室が筒抜けとなっており、縁側をはじめここはとても涼しい。
鳥や虫たちの声もこころを癒してくれる。

自然を横目にお昼寝をしたいな〜

そう、感じさせるすばらしい空間。
似たような空間が海外にもある!それは、「ガゼボ」
人は似たような空間を求めるもなんだと感じた。
海外に行く機会があれば、ぜひ異なる涼しさを感じたいと思う。

みなさんもこの夏休みに涼しいスポット探しをしてみませんか?
posted by S.A.L. at 23:36 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月18日

原点回帰

こんにちは!
広報局2年飯野僚子です。
2年生になって3ヶ月、やっと自然に「2年生の飯野です」と言えるようになりました!


さて今日は、以前出会った面白いプロダクトをみなさんに紹介したいと思います。

突然ですが、みなさんはスピーカーと聞くとどんな形を想像しますでしょうか?
四角い、どっしりした形以外のものを見たことはありますか?

実は「耳」の形をしたスピーカーがこの世には存在するのです。
それはイギリスの有名なメーカーであるB&W(バウワーズ&ウィルキンス)の「ノーチラス」という名のスピーカー。

ぐるぐると渦巻いていて、何のオブジェだ?と不思議に思ってしまう。
このスピーカーを見る誰もが今までのそれには感じられない生き物的なものを感じてしまうちょっと変わった形のスピーカーです。

でも他のスピーカーとの違いはその形だけではありません。
5年間もの時間をかけて研究開発された、レコーディングされたままの音楽を
完全に再現する「パーフェクトな」スピーカーなのです。

ではこのレコーディングされたままの音楽をどう完全に再現するのでしょうか。


その秘密はそのぐるぐるとした「耳」の形に隠されています。


人間の耳には蝸牛という器官が存在します。
ぐるぐると渦を巻いたカタツムリ状の器官で、これは人が音を聞く際に非常に重要な役割を果たします。
蝸牛の中には基底膜という膜があり、鼓膜からの振動が伝わると、この膜も振動します。
そしてその蝸牛がどの場所でどのくらい振動するのかによって音の周波数分析をし、中枢神経に情報を伝達するのです。


…そう、実はこのノーチラスというスピーカーは「耳」の形というより、
「耳の中の蝸牛」の構造を持ったスピーカーなのです。

「聞く」という行為を徹底的に考えてたどり着いた形。
蝸牛の構造をスピーカーにも採用することで、出来る限りクリアに音を伝達する。
機能がそのままデザインになった、とても興味深い例のひとつです。


私はこのスピーカーの秘密を知ったとき「原点回帰」という言葉を思い出しました。
でも、いつも使っているような意味とはちょっと違って、

「進化しつづけた結果、気付いたら原点回帰していた。」

こんなイメージで原点回帰を思い浮かべました。

新しさや性能を追究した結果、自然のかたち・古いかたちに戻るのはとても興味深いことですし、デザインにおいてだけではなくて私たちの普段の行動にも新しい考え方を与えてくれます。

もしかしたら、この世の中にある多くの事柄は「何をしたいのか、何でやっているのか」を深く追究したら驚く程シンプルで単純で美しいものになるかもしれない。

そんなことを考えさせられました。

たしかにこの世の中簡単にシンプルで美しく収まるものばかりではないですが、
無駄な装飾をそぎ落として本当の目的をしっかり軸にもつことはとても大切なことです。


大学生として色々なものに触れる私にとって、これはとても難しくて、でも何よりも大切なこと。
あと少しで夏休みも始まるので、この変な形のスピーカーから学んだことを胸に充実した時間を過ごしたいと思いました。







posted by S.A.L. at 23:14 | Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月15日

平和の実現

こんにちは、梅雨も明けて毎日本当に暑いですね!
熱中症などに気をつけて、毎日頑張っていきましょう!



さて、先日、大学でゲストスピーカーによる命について考える授業がありました。
その授業では障害を持った障害者の方々の日々の様子を映像を通じて見る事ができました。
そして授業が終わる直前、ゲストスピーカーの方が私たちに言いました。


「私は彼らのような重度の障害を抱えた障害者の方々が生きていても仕方が無いのでは、と考えたことがある」と。


その上で、彼は私たちに「命」についてどう考えるか、問いかけてきました。


「命」を考える。


簡単そうに思えて、とても難しい宿題だと、私は感じました。
「命は大切だよ」。そんなことは、簡単に言えます。
でも「命」の大切さを、まだ18年しか生きていない、まだ社会で生きる色々な人々との交流も少ない私のような大学生が、説いて良いものなのか。
そもそも「命」の大切さなんて、私には分かっていないのではないか。
そう感じました。




しかしここ最近、インターネット上の書き込みを見て思った事があります。


悩み、苦しみ抜いた自殺者に対し、「ただの甘え。死にたいならさっさと死ね」。
戦後の日本をここまで成長させてくれた高齢者に対し、「税金の無駄。早く死ね」。




そんな心ない多くの書き込みを見て、少しだけ答えが見えた気がしました。


「死んだっていい命」。


そんな「命」を生み出してしまう思考は、とても危険な考え方。
「死んでもいい命」をよしとすることは、人の命をないがしろにすること。
それは「命」が消えたってどうでも良い、自分には関係ない、と思うこと。

そんな考えこそが、そんな考えを少しでも持った人間がいるから、格差、戦争、環境破壊、民族紛争などの問題が解決されずに、今も多くの人々の命を脅かしている。

だから障害をもった人たち、自殺を考える人たち、あるいは高齢者の「命」をないがしろにする、そんな思いやりに欠けた考えも、私たちの生活を脅かす社会問題や国際問題を生み出す一つの「きっかけ」に繋がるのではないか。


「この世に消えてもいい命などは絶対にあってはならない。皆が幸せに生きていける社会を形成していこう。」

周りの人や知らない人のことを想い生きて行くこと。
今ある「命」、未来の「命」を大切にすること。
それが、平和を実現していく上で、大切なことではないのか。

そんな風に感じました。

でも私がそんな風に生きているとは思えません。
人を思いやり、利他的に生きていける人間になりたい、そう考えています。

【文責:広報局1年 山口さくら】
posted by S.A.L. at 16:44 | Comment(4) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月12日

なにを見て、なにを感じるのか。

夏休みを目前に、まさに夏!と言わんばかりの鋭い日差しとうだるような暑さが連日続きます。
ついこの前まで梅雨だったのに、季節の変わりようは何度経験しても早いものです。


夏休み、と聞くと誰もがわくわくせずにはいられないはず。
特に大学生の夏休みは、長い間お休みできる最後のチャンスかもしれません。
そんな長期の休みを使って旅行に行く人も多いと思います。


S.A.L.のメンバーも、毎年夏休みはスタディツアーへ出発します。
今年はというと、沢山の新入生を迎えたこともあり、例年よりも多くの国へと足を延ばします。
カンボジア、インド、ヨルダンそしてイスラエルと文字通り世界中へと散らばる予定です。

***

そこで今日は、「なぜスタツアに行くのか」ということについて私なりに考えてみたいと思います。


なぜスタツアに行くのか。
こう聞かれたらまず思い浮かぶのは、「自分の目で、耳で、肌で、感じたいから」という答えです。


でももう一歩踏み込んで考えてみると、なぜ自分で体験することが大切なのでしょうか。


現地に赴くことは、何事にもかえられない大切なことだと思います。
知識だけの理解は自己満足に陥りやすく、自分の目で見て初めて理解できることは多いからです。


でも、なにのためにそこへ行くのかという目的意識を持たずに行くよりも
『○×をするため、見るためにそこへ行く』
という自分なりの問題意識を持っていった方が遥かに得られることが多いと思うのです。


スタツアではなにかしら目的を持って旅に出ます。
目的を達成するため身を以て体験すること、これはつまり自分の問題意識を解決することにつながる。
ここにスタツアの意義があるように思います。

***

実際去年インドを訪れたとき、私が出会った少女が教えてくれたこと。

「金銭的に豊かになっていくことが自分の幸せではない。」

インドという発展途上の国にいてもそう思うことがあるのかとはっとさせられました。
幸せとはその人がいる環境で決まるものなのか、という私の問題意識を解決してくれた彼女の言葉。
その言葉は私の胸にがつんと響きました。

なにを幸せと思うのかは、環境ではなく個人が決めるもの。

インドに赴いたからこそ、彼女の言葉を素直に受け入れ、こう理解することが出来たように思います。

***

なにを見て、なにを感じるのか。
それは人としての成長につながります。

経験を自分の栄養にして、大きくそして豊かに成長していきたい。
そしていつかそのお礼として、経験を社会に還元していきたいという思いを胸に私は今年の夏を迎えます。

***

今年も各スタツア参加メンバーが、現地からブログを更新予定です。
世界各国からのいろいろなストーリー、ぜひお楽しみに!

【広報局3年 久保七生】
posted by S.A.L. at 01:26 | Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月09日

同じ話



同じ話を何回もされると
「前にその話聞いたよ」とか
「あーそれでああなったんでしょ」とか
言ってしまうこと、思ってしまうこと、よくありますよね。



私の祖母は戦時中に生まれ、小学校高学年のころ戦争が終わりました。

「服は一年に一度、元旦の日にしか買ってもらえなかったんだよ。」
「教科書は全部、先輩のお古を使ったんだよ。」
「食べるものが無くて、学校にお弁当を持っていけなかったんだよ。」

祖母は度々、私に戦時中の生活を話してくれました。


その話を聞くたびに私は、
「またこの話か‥」と心の中で思ってしまっていました。


「またこの話か‥」と思った時点で私たちは、右から左に受け流します。聞いているフリをしているだけ。



なぜ何回も同じことを話すのでしょうか。


それは、その体験や事件が話者にとって、“衝撃的なこと、忘れられないこと、大切なこと”だから。

そして時にその体験談は、今を生きる私たちにとって必要なものです。


同じ話をされても、常に疑問や関心を持ち続け、違う視点で見ることができれば
より理解が深まったり、新しい発見ができるのではないでしょうか。


3月11日に起きた東日本大地震についても、
度重なるテレビ報道で、半分聞き流している自分がいました。


「聞き流す」という行為で思考をストップさせず、もう一度考えてみる。

私自身、このことを常に意識していきたいです^^


広報局1年 矢口絵理

posted by S.A.L. at 18:16 | Comment(3) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月07日

HOTな話。



いつの間にか梅雨も終わり、今年も夏がやってきましたね!



毎日暑いですが、みなさんいかがおすごしですか?







まだ7月上旬だというのに最高気温が30度を越える日が続いていますね。
北海道でも、30度を越える暑さです。
また、去年の日本の夏は113年間の観測史上、最も暑かったようです。
あれもこれも、「地球温暖化」のせいなのでしょうか?









しかし最近、



「地球温暖化は嘘だった!?」
「科学的数値が偽造されていた!」
「これから地球は逆に、寒冷期に入る」



といった、今までの議論を覆すような意見をいろいろなところで耳にします。




そんな話を聞くと、

「なんだ、騙されてたのか」
「なら、そんなに気にしなくてもいいんだ」

という気になってしまいます。







常識を覆す話は面白いので、

「温暖化って別に大丈夫なんでしょ」

というように、友達との話のネタにもなっているくらいです。











私も、今日の朝まで、そんな一人でした。











しかし、今日の生物の講義を聞いて
緩んでいた気持ちをまた叩き直されることになります。







「今、『温暖化は嘘だった論』が日本で流行っているが、あんなの大嘘。
地球温暖化は進んでいるし、このまま炭素ガスを出し続ければ長期的に見て、
確実に海面上昇を引き起こして、陸地はどんどん海に沈むことになる。」





と、生物の教授は言うのです。







科学的な根拠や議論については、ここでは触れませんが、
どちらの意見にも世に示せるだけの根拠があるのだと思います。
統計の取り方の違いや予測数値の出し方の違いで全く異なる意見になるのでしょう。















さて、ここで二次的に議論に上がるのが、

「エネルギー問題」です。





地球温暖化対策で、クリーンエネルギーとして
開発を進められてきた原子力発電が、
今回のフクシマの事故で、大きく見直されています。
管総理大臣は、日本の原発を全部停止するというような発言をしました。



しかし、地球温暖化が大変だという科学者たちからすれば、
火力発電に戻ることは絶対に考えられません。
今はとりあえず原発に頼って、
次のエネルギー開発を進めるしかないという人もいます。



一方、原発反対派は、今すぐに原発はやめるべきだと主張します。
クリーンどころか、リスクが高すぎるという意見は、確かに否めません。












もちろん事態はもっと複雑ですが、簡潔に言えば、

 「地球温暖化」vs「原発」 

のリスク対立になっているのです。









ここで、物事には必ずいくつもの見方があり、
何か意見があれば絶対に反対の意見がある、
ということを改めて感じさせられます。















「地球温暖化」と「原発」。













今、世界が抱えている大きな問題です。



そして、節電が叫ばれている今年の夏、
どちらの問題も私たちに直接影響を与えていることが
身に染みてわかります。















この夏、計画停電で、真っ暗で暑くて何もできない夜なんかに、
自分の身近な問題としてちょっと考えてみるといいかもしれませんね。











文責:広報1年 若尾真実

posted by S.A.L. at 01:21 | Comment(4) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月01日

自分の言葉

『ミツバチの羽音と地球の回転』をみた。山口県のちいさな離島「祝島」で、上関原子力発電所の新設に反対する人々を写したドキュメンタリー映画だ。劇中「わしらの生活がかかってるんじゃ」「わしらの23年間を、返せ」と全力で叫んでいるおじいちゃんおばあちゃんの姿を見て、「ぼくには原発のどうこうを語る権利なんてないんだな」と自分を責めた。なぜならぼくは、遠く離れた原子力発電所で生み出された電気をずっと存分に使いながら、3月12日の水素爆発でちょっとばかり身震いをしたに過ぎないからだ。おじいちゃんおばあちゃんのように、「自分自身の言葉」でモノを言うことなんてできないからだ。ぼくは自分に脅威が及ばなければいいと心のどこかで思っているだろうし、3月12日までは日本のどこにいくつ原子力発電所があるかなんて気にしたことすらなかった。これは都市生活者の原罪なのか。

*

同じ日に、東京都写真美術館でやっていた『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』をみた。プラハの春の終盤、ワルシャワ条約機構群がプラハを占領した最初の7日間の様子を撮影したジョセフ・クーデルカの写真を集めた素晴らしい展示だ。モノクロで繊細な美しい写真からひとびとの悲しみや心持ちがはっきりと伝わってくる。ある写真の中のプラハ市民は拳を高く手にあげながら、ソ連軍の戦車に向かって叫び声をあげていた。写真だから何も聞こえないはずなのに、何かが聞こえてくる。ああ、この声も祝島のおじいちゃんおばあちゃんと同じような「自分の言葉」なんだな、と思った。本気で叫んだ、本音の言葉だと。

*

そんな『ミツバチの羽音と地球の回転』と『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』は両方とも、ひとびとの無力さとぼく自身の傍観者たる立場を痛感させられるものだった。どんなにひとびとが立ち上がって自分の言葉で叫んでも、上関原子力発電所は建設が進み、プラハの春は終わった。そしてぼくはいつもそんな状況の傍観者でしかなかった。自分の言葉を持たないゆえに、だ。でもぼくは、いつかそんな傍観者たる自分を捨て、自分の言葉で問題を語ることでひとびとの支えになりたいと強く感じている。ひとびとの言葉が決して無力でないことを、ひとびとの言葉が世界を変えていくことを、自分の言葉で証明したい。

*

だからぼくは現場に行く。見て・聞いて・感じることで、単なるハッタリでも机上の空論でもない自分の「言葉」を導きだすことができると考えているからだ。現場に行って問題を自分の経験に昇華し、それを言葉にする。そして、自分の言葉を腹の底から「叫ぶ」。自分で動かない限り、自分の言葉を持つことなんてできないのだ。「書を捨てよ町へ出よう」という言葉にあるとおり、他人の言葉を読み耽るだけではなく、自分で自分の言葉を創りだそう。そのために、動き出そう。そうやってぼくは、少し重い腰の自分にいつも言い聞かせる。

*

この夏、ぼくは祝島に行く。原子力発電所問題を、少しでも自分の言葉にするために。「権利がない」で終わらせないために。いつかその言葉で、苦しむひとびとを助けるために。


文責:はたちこうた


●参考
ミツバチの羽音と地球の回転 http://888earth.net/index.html
ジョセフ・クーデルカ プラハ1968 http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-1353.html
posted by kota at 04:14 | Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月27日

笑顔が笑顔を生む

「オネエサン カワイイネ イッコデ イチドル」

汚い服を着た小さな子供がカタコトの日本語でそう話しかけてきたら
あなたはどうしますか?
お金をあげますか?
それとも、あげないべきだと考えますか?


「物乞いにお金をあげるべきか」
この問いに対しては様々な意見がでてきます。
先日、新歓合宿で行われたワークショップの中でも沢山の意見が出てきました。

まず、多くの人からあげられる意見が
「1人にあげたらきりがなくなってしまうから、
その日をしのげても長期的な支援にはならないから
あげないべきなのではないか。」というもの。

しかし、物乞いの子供たちに会ったとき
無視したら罪悪感に耐えられないのではないでしょうか。


実際、去年カンボジアを訪れた時
どの遺跡に着いてもバスから降りると必ず物売りの子供たちがよってきて、
その度、買わない!という意志を持ちながらも、彼らの目を直視できない罪悪感に苛まれました。

しかし、同行してくださった女性の行動が私に1つの解決策を与えてくださいました。
それはコミュニケーションです。

彼女は子供たちに「君のほうがそのアクセサリー似合うよ」とクメール語で話しかけていました。
それに対して子供たちから自然と笑みがこぼれていました。

子供たちも人間なのだから無視されたら傷つくはず。
逆に、笑顔で話しかけられたら嬉しいはず。
恥ずかしいことをしていたなと思いました。

確かに時間にも限りがあるし、人によって考え方も違うと思いますが
もっと同等の立場にたって愛を持って行動できたら子供たちの心は少しでも傷つかなくなるのではないでしょうか。

【広報1年 加藤花菜】
posted by S.A.L. at 20:58 | Comment(3) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月21日

ことば

「言葉」について考えるとき、思い出す話があります。
アウシュビッツから生きて残った女性の話です。
彼女は15歳の時、弟とともにアウシュビッツに連れていかれました。
その道中、彼女は弟が靴を履いていないことに気がつきます。思わず彼女はこう言いました。
「なんてバカなの、自分のこともちゃんとできないなんて!」
不幸なことに、それが彼女が弟に言った最後の言葉となりました。
彼は生き残ることができなかったのです。
アウシュビッツから出てきたとき、彼女はある誓いをたてます。

―これが最後の言葉となったとしたら耐えられないような言葉を、
 私はもう絶対に言わない―


良くも悪くも言葉のもつ力は本当に大きい。そう痛感させられました。
なんとなく口に出した言葉でも、
たった一言でも、
人を傷つけることがある。
だから、言葉を発するときは聞き手がどう思うか
想像力をいっぱいに働かせなければならないと思います。
これから言葉を使って多くの人に伝えるということをしていく上で、
このことはいつも心に留めておきたいです。


そして、たった一言でも、
人を笑顔にすることがある。
世界を変えることがある。
そう信じて、人の心に残るような、素敵な言葉を紡げる人になれるよう、
精進していきたいと思います。
これからよろしくお願いいたします!

【広報局1年 幡鎌理美】


アウシュビッツの女性の話は、イギリス人指揮者ベンジャミン・ザンダーのスピーチから引用しています。
言葉についてだけでなく、音楽の持つ力やリーダーシップなど様々なことを考えさせてくれる素晴らしいスピーチです。
TEDのホームページで見ることができるので、興味がある方はぜひ見てみてください。
http://www.ted.com/talks/benjamin_zander_on_music_and_passion.html
posted by S.A.L. at 19:47 | Comment(6) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月19日

出会い

世の中には本当にいろいろな人がいて、いろんな考え方を持っていて、


そんな中でわたしは、これまで出会った数多くの人に影響を受けていて。


それは今の自分を作ったといっても言い過ぎることはないくらい。


これまでの自分を振り返ってみると、あのときの両親の考えが自分にこんな影響を与えた

のかな、とか、あのときにあの子に出会ったから今自分はこんな考え方を持っているのか

な、とか、もちろん本や勉強から影響されたこともあるけれど、やはり人と接したりその

中で同じ環境に身をおいたり、そういった人とのつながりからの影響のほうが遥かに大き
い。

それは、両親や親友など身近な人である一方で、一回しか会ったことがない人が、自分の人生や考え方にすごく大きな影響を与えるときもある。


これは、S.A.L.の活動や就職活動を通しても実感してきたこと。


それだけ、人は誰かに何かきっかけを与える存在であり、それは自分でもあり、まだ見ぬ誰か、でもある。


こうした考え方をしてみると、閉ざされた空間にいることは、自分の可能性のつぼみをず

っとかたく閉じたままのもったいない状態なのではないかと考えてしまう。


それは、自分に対してもっと殻を打ち破っていきなさいという戒めである一方で、環境によってはそ

れを自由に打ち破ることができない、むしろそうした出会いの可能性すら知らないくらい目の前の生

活に必死な人たちがいて、そうした状況をなんとか変えたいという思いでもある。



スタディツアーでスラム街を訪問したときに感じたことは、全てがそのコミュニティで完結できると

いうこと、衣食住そこから出なくても成り立つという驚きだった。

そんな彼らが、自由に、もっと多くの出会いの中で、自分の選択肢を考えていける環境を作ることが

いかに大切か。


自分のこれまでを振り返ってみることで、痛いほど実感できるようになった。



わたしができることは、出会いを大切にしていくこと、そしてそれと共に自分が身近な人にとって

も、世界のどこかのコミュニティで暮らしている人にとっても、より良いきっかけを届けられるよう

アクションしていくこと。



日々の生活で、また人生を通して、大切にしていきたいわたしの小さくも大きな願いです。


広報局4年 深瀬詩織
posted by S.A.L. at 03:49 | Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

無知の「ち」

はじめまして。


広報局1年 総合政策学部の北村瞳です。


今年はSFCキャンパスでは5月から授業が始まり、6月半ばになった現在

まだ一ヶ月半ほどしか大学生活を送っていないことにはっとしました。


何もかもが新しい生活、1日1日を過ごすことに精一杯になってしまうことが多
かったように思います。




そんな短い期間ですが、最近私が頻繁に思うことがあります。

それは、今までの自分は

自分が “何も知らない”『ということすら』知らなかったということです。



ひとつは、自分が住む日本の日常にも関係している「世界の真実」についてです。



先日、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ブラッド・ダイアモンド』を観る
機会がありました。


ダイヤモンドという宝石は美しくて希少価値も高く、美と成功の象徴と称される
こともあります。


しかしその美しいダイヤモンドが採掘される際には

現場の人々に対する過酷な重労働、ダイヤを巡る紛争が起こっていると知りました。


産出国が内戦など紛争地域だと、その国は輸出したダイヤモンドなど宝石類で得
た外貨を

武器の購入に宛てるため、内戦が長期化および深刻化することになります。

とくに反政府組織はこれら鉱物資源による外貨獲得とそれによる武器購入を広く
行っており

その際には人々を採掘に苦役させることから人道上も大きな問題があります。

日本も買い手国の一つである、手のひらに収まるほどの小さな透明な石を巡り

その石がどんなふうに加工され輝くかすら知らない遠くの地に住む人々が、

(残酷な言い方ですが、)ゲームの的のように機械的に殺されていってしまう事実。

現在ではそのダイヤモンドが紛争に無関係なことを証明する「キンバリープロセ
ス」という

国際的な制度での取り締まりも行われているそうです。

証明されたダイヤを買うように心掛ければ、争いは起こらなくてすむのです。

しかし長年の間、需要のある先進国の「無知」(気づかぬふり、の方があてはま
るでしょうか。)

によって『血』が流されてきたのは消えぬことのない事実です。

いまも世界のどこかでは「無知の血」が流れているかもしれません。

文字や静止画では伝わらない衝撃も

この映画など、「映像」で体感すること で今まで知らなかった世界を

より実感のあるものにできる面があると思います。

ブラッドダイヤモンド、見る価値のある映画だと思いました。







〔無知ということにすら無関心〕

の状態から

今までの無知識から一歩前進して、知らなかったことを恥じる

〔無知の恥〕へ

そして学んでも学んでも、まだまだ知らないことばかりだと感じる

〔無知の知〕へ。






   ただ知っていることが何になる?


そう思っていましたが、

「知るだけでも世界が変わるきっかけは作れる。」

そう思った出来事でした。
posted by S.A.L. at 00:04 | Comment(6) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月09日

小さな声

はじめまして。

文学部1年の小澤茉紗です。





突然ですが、以下の言葉を聞いて、みなさんは、どのように感じますか?



「大きな声で話すばかりがコミュニケーションではないんだね。
 
 小さな声にそっと耳を傾けること。

 むしろ、それこそがコミュニケーションの核ではないかと、僕は考えている。」




これは、『インパラの朝』の著者である中村安希さんが、カリフォルニアの大学で耳にした、

無口で自信を失った若い学生に対する、先生の励ましの言葉でした。


中村さんは、この言葉をうけて、「小さな声の限りない広がりと、そこに示される深遠さ」を

意識するようになり、「小さな声」を聴くために、ユーラシア・アフリカ大陸、47カ国を684日

かけて、横断しました。



もちろん、日本にいても、ニュースやインターネットを通じて、世界のことを知り、考えることは

できるように思えます。騒がしい雑踏の中でも聞こえる、強い主張を持った「大きな声」は、一見、

その主張をとなえる人やそれを支持する人の多さから、それが正しくて、それが全てであるかの

ように見えてしまいます。




しかし、『インパラの朝』を読んで、自分の中にある「大きな声」からはなれて、

「小さい声」にそっと耳を傾けることでこそ、ひとりひとりの心からの言葉、想いを知ることが

できるのだと気づきました。



パキスタンでは、「私たちが出会ったことを忘れないでいてください。」という声を聴き、

イランでは、「僕たち一般の大多数は、あまり宗教の束縛のない自由な社会を望んでいる。」という

声を聴き、ウガンダでは、「次はいつ会いに来る?」という子供の無邪気な声を彼女は聴きました。

どの声も、近くに寄り添って、耳を傾けないと聞こえない「小さな声」です。





中村さんのように、今ある身のまわりのものすべてから離れて、長い年月をかけて

自分の知らない世界を見に行く覚悟は、私にはまだないし、難しいことだと思います。

だからこそ、今の私に出来ることは、中村さんのように「小さい声」を聴いてきた人の文章を

読んだり、お話を伺ったりすること。

そして、私も、スタディーツアーでカンボジアなどに行くときには、短期間ではあるけれど、

普段きくことのできない「小さな声」を聴き、その想いを感じ、自分のことばで伝えていければ、

と思いました。


参考文献:『インパラの朝』(中村安希・著 集英社)


【文責 小澤茉紗】
posted by S.A.L. at 23:29 | Comment(3) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月02日

コインの行方

 手のひらに乗せた数十枚のコイン。一瞬のつまずきによって、するするとその内の数枚がこぼれ落ちていった。

約3カ月が経とうとしている。そう、2011年3月11日に発生したあの悲劇。東日本大震災は、未だ私たちの話題からは離れない。そして、完全に終息するまで記憶の片隅に置くべきものではない。

手のひらのコインは多くの国が所有する。アメリカ・イギリス・フランス・ロシア、そして日本など。環境に優しい代替エネルギー源として、地球温暖化を抑止し、エネルギーを大量消費するグローバル経済の活性化をもたらすともてはやされるそれは、今も輝きを見せている。私には、錆びれつつある鈍い輝きのように見えるが。コインとは原子力発電所である。

2011年のデータによると、日本には54基、世界全体では432基のそれが存在する。地震・津波という災害によって起きた「想定外」は、故意か、それとも偶然なのか。もちろん偶然であろう。

偶然とは、「ブロークン・アロー(折れた矢)」と呼ばれることのある誤った原子爆弾の投下にも適用されよう。米国の公式報告では、1950年から1980年までに、太平洋および大西洋をはじめ、米国本土、グリーンランド、スペインの各地で計22回のブロークン・アローは生じたとされる。このように想定外は様々な姿で現れてきた。

カナダの詩人レナード・コーエンは言った。”There is a crack in everything, that’s how the light gets in.(いかなるものにも裂け目はある、だから光が差し込むのだ)”これは悲観的にも、楽観的にも捉えうる表現だ。「悪い状態になってしまったら後戻りはできない」というものと、「最悪の事態の中でも可能性は残されている」というもの。

手のひらいっぱいのコインを持つ今、落ちたコインは容易には拾えない。加害者を非難し、妬むだけではあの失敗は活かされることはない。多くが望む、安全に帰し、現在の生活レベルを維持するための手段を模索する時ではないだろうか。見えることはない、様々な放射性物質からは逃れることはできない。そんなゼロ・トレランスの時代において、この先の展望を想像することは困難である。今回落ちたコインが、見つかった裂け目を塞ぐことになることを祈るばかりである。

【文責:広報局 瀬谷健介】
posted by S.A.L. at 03:05 | Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月23日

見ないふり

こんにちは!今年度から広報局に入りました3年の黒島です。




少し前の話になりますが、2年生のとき「都市社会学」という授業を履修していました。その教科書には、少子高齢化、老老介護、貧困化、差別社会、環境問題…などといった社会問題が何章にも渡って延々と綴られています。試験勉強のためにその教科書を読んでいた私は、突如、


「今私は卒業単位を取るために必死にこの社会問題を理解しようとしているけれど、試験が終わればこの内容を忘れて、来年になれば就活を始めて、大手有名企業ばっかり受けてうまくいけば就職して、年収一千万円くらいの人と結婚して、子どもを産んで英才教育を受けさせて、いい学校に行かせていい企業に就職させて…というふうに、いつかこの社会問題の根底にあるような学歴社会を再生産させていくのかな」


と、思って、ふと漠然とむなしい気持ちになってしまいました。




年金も打ち切られ家も追い出され、預金残高数十円の通帳と空っぽの胃袋を抱え、車中で餓死した老夫婦の記事を読んだ時に感じた激しい衝撃や憤りも忘れて、
あるいは忘れたふりをして、
就活マニュアル本なんか読みながら、学生時代にがんばった活動の話とかするのかな、なんて思ってしまったのです。




もちろん、365日ずっと社会の問題や、世界の情勢を憂いながら生きていくことなんて不可能です。社会の問題に一瞬目をつぶって、自分のことだけを考えなくてはいけない時もあります。


ただ、「見えないふり」を続けていくうちに、本当に「見えない人」になってしまうことは、とても怖いことではないでしょうか。

自分の周りの状況が「見えない」、地球の裏側の苦しみが「見えない」、隣りの他人の痛みが「見えない」。きっと、このたくさんの問題を孕んだ世界や社会から目をそらしつ続けていたら、本当に見えなくなってしまうのだと思います。


そうならないためにも、私は「見えないふり」をしている自分自身を「見えないふり」は、しないようにしたいと思うのです。そんなずるい自分の存在も意識しつつ、そういった世界や社会を「見る」ときにはきちんと向き合い、「見る」ことができる機会には敏感になっていたいと思うのです。





そんなふうに世界に向き合うための1つの機会として、ぜひ私も足を運びたいと思っているものがあります。5月24日からスタートするFocus on Myself写真展です。



子どもたちの撮った写真からむりやりその国の歴史的背景や、ひとびとの抱える問題を汲み取ろうとするのではなく、純粋に彼らの写真を楽しみに行きたいと思っています。そうして、写真を見ることによって生まれる、自分の中の感情の波立ちを感じてみたいと思うのです。

そしてそのさざ波は、いつか大きな変化を求めて動き出すための、背中を押す潮になるのかもしれません。


広報局3年 黒島秀佳
posted by S.A.L. at 22:43 | Comment(3) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月12日

アートを通して世界をひっくり返す…?

写真を撮る人、撮られる人、ひとつのカメラ、紙そしてノリ。


この4つでなにができると思いますか?


フランス人のアーティストJRは、このたった4つを使い、人々のポートレイトを巨大なキャンパスに貼ることで本当の世界を伝えようと活動しています。

道路や屋根はたまた電車というように紙が貼れるところならどこでも、彼にとってはキャンパスになります。
そして表現することだけが彼のプロジェクトの目的ではありません。


彼の写真にはストーリーがあります。
例えば”Women are Heroes”というプロジェクト。
このプロジェクトは生活の中では中心的な役割を担いつつも男性よりも認められることの少ない女性のため、発展途上国の国で行われました。
女性の写真を貼ることで男性から女性へ感謝の気持ちを表すというもので、被写体の女性は表情をつくることで自分の感情を表しています。


こういったJRのプロジェクトの面白い点は、彼が自分の作品を展示するというある意味傲慢な目的のために様々な地域でプロジェクトを実施しているのではなく、展示することで(それもユニークな方法で)その地域の問題を現地の人、そして世界に訴えかけるという点にあると思います。つまり展示をする、ということが目的ではなく、当事者の声をアートという行為を媒介にして発信しているのです。

そしてそのアートを見た人がただ見るだけではなく、今度は参加する仕組みがあるのも面白い点だと思います。
方法は簡単。彼のサイトに自分のポートレイトを送るだけ。
(興味のある人は覗いてみてください→http://www.insideoutproject.net/



私がいちばん共感したのは、写真にはストーリーがあるということ。
そしてプロジェクトを同じ場所で継続することを大切にしているということ。

今度5月24日から行われる、Focus on Myself写真展で展示する写真にもたくさんのストーリーがあります。
(Focus on Myselfについての詳細はこちら→http://focusonmyself.com/

そしてストーリーを理解することでその写真に写るもの、そして世界を知ることができるのだと思います。
例えそこに写っているものが壁だとしても、その写真にはその「壁」を通したなんらかの思いやメッセージがあるはずです。

今回の写真展では子どもたち自身が語った、その写真を撮った理由や背景を一緒に紹介する予定です。

理由や背景を理解してから写真を見るのもよし、あえて説明は見ずにまずはその写真のストーリーを想像してみるのもよし。
ひとつの作品から様々な楽しみ方が出来ると思います。
また今回は4カ国の子どもたちの写真が同時に見ることができるので、彼らの写真を比較しながら見て考えるのも楽しいはず。

開催するわたし自身も、どんな写真展になるのかわくわくします。
写真のストーリーを探りにぜひ遊びに来てください。


最後に。
2011 TED Prizeを受賞した際にJRが自身の活動について話しています。
とても面白いので少し長いですが見てみてください。



またはTEDのページへ→http://p.tl/lLjU
広報局長 3年 久保七生
posted by S.A.L. at 22:38 | Comment(5) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

芸術は…!

こんにちは!
広報局2年の飯野僚子です。
まだまだ「1年の飯野僚子です!」と書いてしまいそうになる今日このごろです。

さて、突然ですがみなさんは岡本太郎さんの名前を聞くと何を想像しますか?
…太陽の塔?
…それともあまりにも有名なあの言葉?

− 芸術は爆発だ −

今日はこの言葉の意味について自分なりに考えてみたいと思います。


なんだか破壊的で、他との調和を乱すもの。
私は今まで、そんなイメージをこの言葉に抱いていました。

とても個性的で「変わり者」と言われていた彼のこの言葉。
もしかしたら多くの方々が私と同じような印象をこの言葉に持っているではないでしょうか?

しかし先日岡本太郎展を見に行ったところ、すぐにこの解釈は崩されてしまいました。


彼はこの言葉に関連して次のようなコメントを残しています。


『全身全霊が宇宙に向かってパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。』


ここからもわかるように、彼の言う「爆発」とは少なくとも破壊的なものではないようです。
むしろ、力強い生命力に満ちた、創造的なものなのでしょう。

とても個人的な意見ですが、一見、彼の作品は原色を使ったものが多いため、その一つ一つの主張が強くて反発しあっているように思えます。
「他人に耳を貸さない。」といったイメージです。

ところが、作品を一つ一つじっくり見ていくとなんとも不思議な感覚を覚えるのです。
強さの中にもろさがあって、意見を押し付けられているというより会話を仕掛けられているように感じるのです。
もしかしたら、人々との対話を求めるがゆえにこのような鮮やかな作品になったのかもしれません。
私たちに声が届くように、反発ではなく繋がりを求めて生命力を爆発させたのかもしれません。


…私は彼の「芸術は爆発だ。」という言葉をこのように解釈したのですが、
もし私の解釈が彼の考えに少しでも近づくことができたのならば、
私はずっと「爆発」していたいし他人も「爆発」させられる人になりたいと思いました。

現在、今月末に迫るFocus on Myself写真展を準備していますが、まさにその写真展が多くの人々のエネルギーを引き出すきっかけになると信じています。
世界中の表現活動にあまり慣れない子どもたちのエネルギーを写真という形で外に放出させることもそうですが、
ただそれだけではなくてその写真から受け取ったことを写真展に来る人々が対話として受け取ってまたエネルギーに変えてもらうことができたら、と思います。

今は写真展が1番の「爆発」のチャンスですが、これからもっともっとこのような機会を色んな人々と共有したいです。


芸術は爆発だ!


*よかったらFocus on Myself HPをご覧ください
http://focusonmyself.com/
posted by S.A.L. at 00:04 | Comment(6) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月06日

親愛なるロベルトへ

*


親愛なるロベルトへ




君に手紙を書くのは、三年ぶりかな。元気にしてる?



君に出会ったのは、3年前の夏だね。




私が初めてフィリピンに訪れて、スタディーツアーで君の住む孤児院に行った時。





君は私のバディーだったの、覚えてる?照れる君が、だんだん心を開いてくれて



すごくすごく嬉しかったんだよ。



両親はどっちもいないってきいたけど、あどけない君には、そんなことをみせないくらい明るかった。






でもたまにみせる、悲しい顔が、寂しかった。

私が持っていった、おもちゃのフリスビー、遊び方がわからなくて首にかけてたね。




実はね、あれから2年後、フィリピンに行って同じ孤児院遊びに行ったんだよ。

君に会えるかなと期待して。


でもね、君はもういなかった。職員さんに聞いて、もうでていったって。


家もない、両親もいない君は、また道端に戻ってしまったの?


何をしてるのかな。ちゃんとご飯たべられてるのかな?里親を見つけて幸せに暮らしてるのかな?



あの頃は6歳だったから、もう10歳近くだね。






私はもう大学を卒業をしてしまうけど、君には大学はまだまだ先の話だね。


また元気な笑顔でハグしてくれたら、嬉しいんだけど、ね。





またフィリピンに行ったら、きっと君もまた探しに行くよ。




xoxo.

kaho



*




たまにふと思い出す。


昔、海外に訪れて、出会った人たちのことを。


私は、あれから3年、何か変わったかというと、あまり変わっていないのかもしれない。



少なくとも、生活は変わっていない。取り巻く環境は、目まぐるしく変わってきたが。



私が出会ったフィリピンの孤児院で暮らす少年は、孤児院をでてしまった。

家もない。親もいない。


ただ、縛られる世界を苦に思って、自由を求めて、ストリートチルドレンにもどる子が多いという。




出会った時は、孤児院を卒業して、学校に行って、仕事をするなんて思ってた。


きっとちゃんと自立した生活をすると思ったし、させてあげたいとも思った。



でもそれはただの自己満足かもしれないし、望まれてない人生なのかもしれない。

それとも、10年後、やっぱりあの時って後悔をしているのかもしれない。



私には何もできなかった。そんな「モドカシサ」を感じる日々だった。






いまは思う。私にとっての、人生の分岐点を与えてくれた、「孤児院ボランティアツアー」。






ボランティアって慈悲なんかじゃない。「自発的に何かをすること」で、結果としてついてくるもの。








相手に何かを求めるものでもないし、相手に自分の投げ出すものでもない。






ロベルトは、私に教えてくれたのかもしれない。



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【文責:広報局4年/木本佳歩】
posted by S.A.L. at 22:16 | Comment(5) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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