2011年09月21日

【2011夏 ヨルダンスタツア】命に国境はない

「命に国境はない」

スタディーツアーでお世話になった高遠菜穂子さんが、絵はがきに書いてくださった言葉だ。




今回のヨルダンスタディーツアーを通して、私は多くの難民の人々に出会った。
みんな私達を最高の笑顔と抱擁でむかえ、明るく優しかった。しかし今までのブログにもあったように、彼らは親や友人が殺されたり銃を突きつけられたりと、想像を遙かに超える辛い経験をしていた。

ヨルダンにいる難民のほとんどが熾烈な過去を抱えているが、ニュースになることはない。日本でもし同じようなことが起こったとなれば、大ニュースになる。

失われてもいい命と、失われてはいけない命とは何か。




日本にいる間、 私は戦争がなくなって平和になって欲しいと思う半面、どこかで「しょうがない」と自分に言い聞かせていた。 世界には私が知らない事情がたくさんある。いわゆる「大人の事情」。 だから仕方ないのだと。
しかし、ヨルダンで出会った人々を前にして、私は「しょうがない」と思うことはできなかった。彼らをすごく身近に「人」として感じたからだ。世界には今も紛争や貧困に苦しむ多くの国がある。そこには確かに人がいて、その一人一人には人生が存在する。私と同じように親がいて、友達がいる。日本でニュースを見たり学校で勉強をしたりしている間に、私はそんな大切なことを忘れていた。日本で情報を得るばかりで頭でっかちになってしまっていた自分を、恥ずかしく思った。


世界の人々にはそれぞれ国籍があり、人種があり、宗教がある。しかし、命の重さに国籍も人種も宗教もない。みんな同じ人間であり、同じ命である。命に国境はないのだ。それなのになぜ、国や宗教が違うからといって、人によって人の命が奪われてもいいのか。私はこのスタディーツアーの間、もどかしくて虚しくてどうしようもない気持ちに何度も襲われた。


「理想論だ」と言われるかもしれない。「しょうがないだろ」と言われるかもしれない。
しかし、私達と同じように生活しているだけの人の命が、人を思うことのできる人の命が、失われてもいい命だと言うのなら、失われてはいけない命がどんな命なのか、私には分からない。


「しょうがない」で終わらせるのではなく、「理想」を実現させようと努力しつづけることで、いつかそれが「当たり前なこと」に変わるのだと私は信じたい。


ヨルダンスタディーツアーを終えて、いま心から思う。
世界に平和がおとずれますようにと。


【イベント局2年 鈴木友佳子】

2011年09月19日

深く思いやること

旅に出ると時々わからなくなる
それぞれの国の習慣やタブー
何が許されて何が許されないのか

このヨルダンスタディーツアー中、私は何度それを思ったことだろうか

私はあるイラク難民の女性の家に招かれた
フダというその子は私と同じ19才、少しシャイだがとても大人っぽくてとてもキレイな人だ

フダと一緒にRainbow St.というマーケットをぶらついた後、私達はフダの家に招かれた
夜11時になろうともいう時間、
日本人的感覚からすればこんな夜遅くに十人という大人数で家にあがるのはとても迷惑なこと
私達は玄関先でさよならを言おうと決めていた

しかし家に着くとフダの母が現れ、兄、妹まで出てきて熱心にあがっていけという
私達は断りきれずに靴をぬいでリビングへ入ってしまった

とても裕福とは言えないフダの家庭、それでもフダの母は2つのコップに水をいれ、それをまわして飲むようにいった
結局10分程談笑した後、私達はそろそろ戻らないといけないと言い、無理やり家を後にした


フダの家からホテルまでの帰り道、私は考えた

私達はこんなに早くフダの家を出てきてしまって良かったのだろうか
私達は他人の家に長居することは失礼だという日本的感覚を自己満足としてフダに押し付けたことにはならないか
神妙な顔で私達が日本語でいつ帰るべきか相談している様子を見てフダは何を感じただろうか


他にも行く先々で勧められるアラビアコーヒーを口に合わないと断ってしまうこと、せっかくアラブ人と楽しく話していても水タバコを吸おうと誘われると私は結構と席を立つこと、ムスリム女性に好きな人はいるかと聞いてしまうこと

私達はこのスタツア中にどれだけの人を傷つけてしまっただろう

そう考えていることこそ日本的感覚、私達は彼らにとって外国人なのだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだ

しかしこのスタツア中に見てきたイラク難民やパレスチナ難民が抱えている多くの問題を解決していくにはこうした重すぎる程の気配りも必要だと私は思った

互いに違う立場の者同士、違う経験をした者同士にはそれぞれ自分達のルールや習慣がある

どんなにがんばっても完全に相手を理解することはできない、なぜなら既に自分達のルールがあるし、何より他人の立場や経験を実際に体験することができないのだから


だから
体でできない分を心で補う


このスタツアを通じて私はどれだけ深く思いやることができただろう

何が許されて何が許されないのかその答えは自分がどれほど相手の心に深く寄り添えたかにあるのだと思う


広報局1年   花上愛祐美



忘れられない思い出




あなたにとって、忘れられない思い出は何ですか?




ヨルダンスタディーツアーも、早いもので最終日となりました。
私は今、この2週間の出来事を思い出しながらブログを書いています。


私たちは昨日、イラクの支援活動を行っている高遠さんにイラク戦争のお話を聞く機会がありました。その中でも私がもっとも印象的だったお話を書きたいと思います。




あるイラク人の家族が、国内情勢が悪化したために隣国のヨルダンへ亡命をしようとしました。その家族は父、母、当時15才と10才の男の子、5才の女の子の5人家族です。


ヨルダンに亡命することはできましたが、途中米兵に引き留められ、5才の女の子を含む全員が胸に銃口を突きつけられ尋問されました。



3年後、一番下の女の子が8才になったとき、彼女はこんな絵を描きました。


“ベッドの上で銃をかかえ、血を流しているお姫様。窓から微笑を浮かべ、お姫様を見つめる人物。”

女の子に、絵の意味を聞くと
「お姫様は私。銃で殺されたの。窓から私を見ているアメリーキー(アメリカ人)に。」
と答えました。




銃を胸に突きつけられたとき、5才の彼女はどれほど恐ろしい思いをしたのでしょうか。

表面的には見えにくい彼女の心の傷は、想像をはるかにこえて深いもので、きっと一生消えることがないでしょう。


彼女のケースが珍しいことではなく、誘拐されたり暴力を受けたイラク難民の方々が数えきれないほどいるのです。


そして、それら体験は、それぞれ数えきれないほどの悲しみや心の傷を残します。



世界中の人たちの忘れられない思い出が、幸せな思い出ばかりの世の中が訪れますように。


(広報局1年矢口絵理)

2011年09月17日

見てほしい景色

ヨルダンに来て早くも9日間。緑1割茶色9割の景色、雲がなくカラッと晴れた青い空、そして「ジャバニー!」と呼びかけてくるたくさんの声にもだいぶ慣れてしまいました。
 ただ、ここ2日間はまるでちがう国、大袈裟に言ってしまえばちがう星にまで来てしまったのではないかという感覚。私たちは昨日今日とヨルダン南部に位置するワディラム砂漠に行ってきました。
 ジープで少し進めばそこは文字通り無人、映画に出てきそうな岩山と、所々にかろうじて草が生えているだけ。遊園地のアトラクションのようなジープに乗りながら、ロッククライミングや遺跡のスポットを巡っていると、あっという間に夕方になっていました。泊まるキャンプ場に着くと私たちは岩に登り、日が沈むのを眺めることに。太陽の位置が低くなると空は水色からオレンジへと同化していき、遠くに連なる岩山のシルエットがはっきりしてきます。映画で泣くことはあっても、景色がきれいで泣くという経験は初めてでした。
 太陽が沈むまでの20分間、この貴重な時間に、何について、そして誰について考えようと思ったとき、頭に浮かんできたのは、この旅で出会った子どもたちでした。
 FoMや今回試みた絵のプロジェクトで最も強く感じたこと。それは、「この子たちの純粋な好奇心を消すようなことが絶対あってほしくない」ということです。カメラを初めて持ったときのキラキラした目や、カラフルなクレヨンを存分に使った作品を見ていると、彼らはこれからもっともっとたくさんの「初めて」や「不思議」を経験していくのだろうし 
、ぜひそうであってほしい。きっときれいな景色を見たり、ものを作ったり、いろんな人と出会ったりするわけで、その一貫と言ったらおかしいかもしれないけれど、彼らにもこの場所からこの夕日を見てほしいと思ったのです。イラクでお父さんを拉致されて命からがらでヨルダンに来た子にも、自分の生まれ故郷に行ったことがないパレスチナ人の子にも、そして貧困に苦しみながらもたくさんの難民と共存していかなければならないヨルダン人の子たちにも。教育の問題を解決していくのは簡単ではないし時間がかかるけれど、その間に彼らの感受性がすり減ることが、どうかありませんように。自分はもともと情操教育に興味があったのですが、今回直接子どもたちの顔を見て、心にずーんと重く響くものがありました。それはおそらく彼らにわいた愛情であり、逆び彼らの将来への危機感でもあるのかもしれません。
 
私は正義感が強い人間でも、特別思いやりのある人間でもありません。今、こんなふうに人のために心から祈るようになれたのは、ほかでもない、ヨルダンで出会ったすべての子どもたちのおかげです。日本に帰っても夕日を見るたびに、自分が一度でもこんな優しい気持ちになれたことを思い出したい。そして、彼らの将来を「カラフル」にしていくことに、自分が何らかの形で関わっていけたらと思います。

イベント局 1年 原菜月


笑顔

  ぎらぎらの太陽に、夜でも鳴り響く車のクラクション。毎朝街中に聞こえるコーラン、レストランから漂う水タバコの香り…
  2週間のヨルダンスタツアも折り返し地点を過ぎた頃から、このようなヨルダンの日常に、驚くほど馴染んでいる自分がいます。

  昨日、私はイラク出身のとある少年の家を訪れました。彼は、とにかく笑顔が素敵で、映画好きの15歳。現在は、首都アンマンから車で少し走ったところで、母・弟2人・おばさんと暮らしています。
彼の父は、彼が7歳のとき、イラクのバクダッドで殺されました。当時その地域で宗教的マイノリティーであったために、仕事の帰り道、何者かによって銃殺されたのです。数日後、彼自身もおばさんと一緒にいるところ、連れさられそうになったことがあります。それを機に、安全を求め、家族でヨルダンに移ったのです。
  彼の母は乳ガン・骨肉腫・肝臓ガンにおかされ、薬治療を受けています。薬の副作用により髪は抜け落ち、右足全体に痛みが残っています。
最も衝撃を受けたのは、実はあの笑顔の少年、そして兄弟全員がサラセミアという病気だったのです。
国連からの支援は行き届いておらず、薬を購入する十分なお金がないために、母の分だけかろうじて、しかし3人の薬は購入できずにいるのです。

  私は思いました。世の中には、戦争をしたり武器を作るお金はあるのに、病気を治すためのお金が十分にないなんて…
  純粋に、家族みんなで暮らしたいと、ただそう願う家族に立て続けに病が降りかかるなんて…

  それでも、父の代わりに、母のためにと、率先して家事を手伝い、弟を守り、母を守る15歳の彼。母と話している彼の顔には、今も忘れられないくらいまぶしい笑顔が輝くのです。

  ワディラム砂漠で、沈んでゆく太陽を見て、私は彼の笑顔を思い出しました。まるで太陽のように周りを明るく照らし、人々を笑顔にできる彼を思い出して、涙が出ました。
  私はこの旅で、たくさんの笑顔に出会っています。私ができることは、この笑顔を消さないよう、全力で学び、感じ、伝えることだと思いました。日本に戻ったら調べたいことがたくさんあります。もっと知識を増やして、またこの地に来たいです。そして残り2日、彼の笑顔を胸に、ヨルダンライフ充実させます。

広報局1年 木藤真夕

2011年09月16日

わからない。


ヨルダンで一週間を過ごし、陸路で国境を越え、僕は今イスラエルのエルサレムにいる。




国境を越えるとき、イスラエルの出入国審査は厳しいと言われていたので、スタツアに行くことが初めてだった僕は少しばかり不安を持っていた。

結局審査は少し時間がかかったもの意外とスムーズに進んだ。

しかし、近くにいたパレスチナ人達は別のルートを通され、厳重に審査されていた。

同じ人間ながら明らかに扱いが違い、話には聞いていたもののこんなにも差別されるとは考えていなかった。





このようにイスラエルではパレスチナ人が差別されることが多くある。




僕は一昨日エルサレムの旧市街に行った。

そこはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の3つの宗教の中心地であり、半径1kmの間に争い合った3つの宗教が共存している場所である。

そして、イスラエル国内では、パレスチナで生まれた人間がイスラエル側に入ることができない。

つまり、イスラエル側にあるエルサレムには宗教に関わらずパレスチナで生まれた人間は入ることができないということだ。

これは本来イスラエルとパレスチナが共有すべきエルサレムをイスラエルが占領してることから始まっている。





イスラエルでのパレスチナ人の差別の元をたどると、
確かにユダヤ人は過去にホロコーストにより大量虐殺され、その怒りを今でもひきずっていたり、また、二千年もの間ユダヤ人国家を作りたいという思いを持ち続けていたということもある。

またパレスチナ人がイスラエルでテロを起こすという事実もある。

しかし、ホロコーストの復讐としてパレスチナ人を差別することは標的が違うとも思うし、国を作るときに他の宗教を迫害する必要もなかったと思う。

イスラエルがパレスチナ自治区でテロと似たようなことをしているという事実もある。

そしてこの問題はイギリスやアメリカなどの先進国による戦略も絡んでいて、この国だけの問題ではない。





結局、どちらが正しくて、どちらが悪いのかを決めることは、僕にはできない。

できないというよりは、『わからない』。

この『わからない』という答えが今の現状を表していると僕は思う。





この国のこの状況はいつか変わるのだろうか。

それは良い方向に進むのか、悪い方向に進むのか。

いつかこの『わからない』がなくなりますように。


渉外局1年  押尾 聡

民なき土地の民

民なき土地に、土地なき民を

第二次大戦中の、ナチスドイツによる大量虐殺を耐えたユダヤ人たちが、パレスチナの地にイスラエルを建国した際に用いたスローガンである


僕はその「民なき土地」に建てられた国、イスラエルに昨日から来ている。イスラエルという国名を聞いて皆さんは何をイメージするだろうか。
攻撃やテロが繰り返されている危険な国で、渡航するのはちょっと…といったところだろうか。
しかし、僕の見たエルサレムは観光都市そのもので、新市街の調和のとれた街並みはパリの街のようであったし、三代宗教の聖地が集まる旧市街からは厳かさを確かに感じ、それと共に暮らす人々の平和な息遣いが聞こえてくるようだった。
だからといってイスラエルの抱える緊張を僕達に感じさせる場面がなかったわけではない。旧市街の中に位置するユダヤ教の聖地の「嘆きの壁」に近づくにつれて、イスラエル兵をちらほらと見かけるようになる。そしてついに「嘆きの壁」へのゲートをくぐると、そこにはひしめく観光客の数に匹敵する程の数のイスラエル兵がライフル銃を肩から下げながら職務をしている光景に圧倒された。ライフル銃というのは警察官が腰から下げている拳銃と違い、それを身につけた人間が近付いて来るだけで、威圧感と恐怖を感じるような武器である。それをぶら下げているのは志願して集まってきた兵士ではなく、18歳から徴兵されて兵役についている女性も含めた若者達であり、中には僕達よりもまだどこかあどけないような兵士もいた。

日本よりも豊かなようにも見えるこの国で何故そこまで強力な軍事体制を布く必要があるのか。彼らの敵の正体とは一体何なのか。

「僕はこの草を見ると悲しくなるんだ。パレスチナにも生えてるもので、故郷を思い出すから。」
一枚の写真を指差して、アハンマドが僕の目をちらりと見ながら呟く。アハンマドはヨルダンに住むパレスチナ難民の12歳の少年だ。
僕は昨日までヨルダンにいた。そして、ニ日間に渡ってアハンマドや他の難民の子ども達と関わってきた。
その中で僕たちはFocus on Myelfというプロジェクトを行った。まず子どもたちに、大切なもの、辛いもの、自分の国の紹介を写真に撮ってきてもらう。そして、その写真の中から僕らと彼らの意識の違いや、各国の子どもの意識の違いに気づいてもらうための写真展を開くプロジェクトだ。
アハンマドが指差していたのは、辛いものと自分の国の紹介として彼が撮って来たものである。他の子供達も同様に、辛いものの写真としてパレスチナに因んだ何かが写ったものを指差す。ただ、彼らにパレスチナに行ったことはあるのかと尋ねると、NO、と全員が答えた。

イスラエルは、第二次対戦中のナチスドイツによる大量虐殺を耐えたユダヤ人によって「民なき土地」につくられた。過去二千年以上に渡って迫害されてきた彼らは、「土地なき民」として世界を放浪した。その間に彼らをユダヤ人たらしめたのは、旧約聖書の中でユダヤ人に約束された「カナンの地」であるパレスチナにいつか帰れるという信仰だけである。

そして彼らは、1948年に約束の地パレスチナを手に入れる。その一方で、パレスチナを追われたアハンマドの先祖たちはヨルダンなどに逃れた。そしてその子孫であるアハンマド達は全世界に450万人以上の規模となり、そのほとんどが今でもパレスチナに足を踏み入れることを許されていない。そして、パレスチナの土地を取り返すための戦いを続けている。

かつての「民なき土地の民」たちが、今度は「土地なき民」となり、先祖の地に帰る日を夢見て世界をさまよっている。

僕は両方の「土地なき民」達に安息の日が訪れることを心から願う。


日本にいるとわかりにくい両国の姿を書くことで、イスラエルとパレスチナの問題に一人でも多くの人が興味を持ってくれたら思いこの記事を書きました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


広報局一年 藤井義隆

2011年09月15日

10年目に



絶対に何かが起こると思っていた。


2011年9月11日。


そびえ立つ双頭のビルに突き刺さるボーイング
黒煙をあげ崩れ落ちるワールドトレードセンター
全世界を震撼させた米同時多発テロからちょうど10年。

その日、私はヨルダン、ペトラ遺跡にいた。

奇しくも今年の5月にオサマ・ビンラディン氏が殺害されたこともあり、
私はこの日に自分がアラブ人に囲まれて中東という地域にいることに感謝しつつ、同時に恐怖もしていた。

しかし、実際にその日何かが起こることは無かった。

私はほっとしたと同時になにか肩透かしを食らったような気分だった。
だが、この時の私の考えは全くもって私たち外側の人間の勝手な想像なんだと、後になってはっとした。

「9.11」という日になにかが起こるに違いないという私の考えには、


「中東のひとは、あるいはイスラム教のひとは、
9.11に特別な感情を抱いているに違いない」
ひいては
「またあの日のようにテロを起こすに違いない」

そんな私たちのステレオタイプ、偏見が色濃く影を落としているのだ。


本当は、そんなふうに一概に捉えることは過ちだと、
私たち外側の人間こそ冷静に
彼らの本当の姿を見なくてはいけないんだと、
そう考えて、
そういうふうに周りにむけて発信するつもりで
ヨルダンに来ていたはずなのに、
結局私もまたそのステレオタイプを捨て去ることが出来ていなかったのだ。

 そう感じると同時に
私はその日までに出会った数多くのアラブ人に対し
申し訳ない気持ちになった。


精一杯歌や踊りで私たちを歓迎してくれたパレスチナ難民の子供たち、
恋に悩んだり、進路に悩んだりしていたイラク難民の女の子たち、
私のあげたほお紅を嬉しそうにつけていたベドウィンの少女、

そして
すれ違うたびに「welcome to Jordan!」と
私たち日本人に笑顔であいさつしてくれるヨルダンのひとびと。

当たり前だけど私たちと何ひとつかわらない
むしろ、より寛容で、おおらかで優しい人たちばかりだ。


もちろん、そうに違いないと頭でわかっていても、
私も実際にアラブ諸国を訪れるまで気持ちの上で、
心の底からそう思うことはできていなかった。

中東という遠い国であることや、情報の少なさもあって、
「よくわからない」ものへの恐怖もあるかもしれない。

それでも、
少なくともイラク戦争時に自衛隊を派遣した国の一員としても、
「よくわからない」では済まされないはずだ。
きちんと中東や、アラブに生きるひとびとに向き合い、
彼らのことを理解しようと努力することを怠ってはいけない。
改めてそう感じた。
それこそが、未だに銃撃戦のやまぬイラクや、パレスチナのひとびとへの
私たちのひとつの責任の取り方、ひとつの援助でもあると思うのだ。


国民的アイドルグループもこう歌っているではないか。
「精悍な顔つきで構えた銃は 他でもなく僕らの心に突きつけられている」と。







これは2011年9月11日の記事です。
この日は奇しくも3.11からちょうど半年に当たる日でもありました。
全ての被災地で、同じように心ない偏見が生まれませんように。



(文責 広報局3年 黒島秀佳)

2011年09月14日

中東のかけはし

"Welcome to Jordan!!" 

街に出るたびに、にっこり笑顔でわたしたちに話しかけてくるヨルダンの人々。中東•イスラームといったら、「テロ」や「原理組織」「武装」といった暴力的な言葉が思い出されるが、彼らの笑顔からそのような言葉を思い浮かべたことは一度としてない。ここ、ヨルダンにきて、私は大きな衝撃を受けた。今まであれこれと想像していた中東の世界とはまるで異なっていたからだ。

人口の7割が難民だというヨルダン。これほどまでに難民の受け入れ態勢が整っていて、開けているのには理由がある。ヨルダンは天然資源もなければ水資源もないため、他の国に頼らなければ生きていくことができない。隣国の中東諸国と、さらにはアメリカとも良い関係を保っていかなければならないのだ。しかし、私はそのヨルダンの特徴、「外交」こそが、あの社交的で明るいヨルダンの人々の国民性を生み出しているのだと感じている。このヨルダンが中東世界を、そしてアメリカなどの欧米諸国とをつなげる架け橋になるのではないかと希望を見出すことかできた。どのような国になっていくのか、スタディーツアーが始まってから想像を膨らませてきた。そしてついに、今日9月13日、ヨルダンの子どもたちにヨルダンの未来をどのようにしたいか聞くことができた。

私たちは、日本のNGO団体、「国境なき子どもたち」を訪問させていただき、12歳から18歳までのヨルダンの青年たちとヨルダンの未来を語り合った。

方法は絵を通して。グループで1つの画用紙を使い、一人一人がヨルダンの未来を画用紙の上に描き表していった。グループで1つの作品を作ることによって「相手の意図を読む」「自分の考えを伝える(言語の壁を越えて)」「調和(共存)」を実現させたいという思いがあった。この要素が国作っていくために必要だと感じているからだ。

それぞれの作品は大変興味深かった。日本との交流をもっと深めて科学技術を教えてもらいたいという意見や、ヨルダン人みんなが仲良く暮らせる場所にしたいという意見、ヨルダン人も月に行ってヨルダンの旗を立てるんだ!などといった明るい未来を想像させる意見であった。中にはアメリカのようにビルがたくさん立ち並ぶ街にしたいという意見もあった。他の国との関係を大切にしながら発展をしていく、そんな未来を思い描いた。

しかし、1つのグループの絵は飛行機とそこから落ちる爆弾、銃を抱えた子ども、道端に倒れる人が描かれていた。銃を抱えた子どもには「パレスチナ」、道端に倒れている人の上には「イスラエル」と書かれていて、その絵の裏側には動物や水、木や笑った人の顔が色とりどりに描かれていた。

「今のパレスチナとイスラエルが反対になれば、きっとこんなにも素敵な世界になるんだ。」

「外交」から、たくさんの考えが取り入れられるようになり、様々な感情が交錯するこのヨルダンで、どのような未来を作っていけるのか、私は、また新たに考えを巡らせている。

【渉外局1年 大木 千加】

人の痛みを自分の痛みに。

昨日でヨルダンでの『Focus on myself』のプロジェクトが終わった。

ヨルダン一日目のブログにあった通り子供達にインスタントカメラを渡して『嬉しいこと』『辛いこと』『自分の国の紹介』というテーマでそれぞれ写真を撮ってきてもらい、昨日は子供達に子供達自身のことと写真についてインタビューをした。

私はパレスチナ難民の子供達にインタビューをしたのだが、子供達は楽しそうに答えてくれた。


しかし『辛いこと』というテーマで撮ったきてくれた写真の説明をするとき、大半の子は顔を曇らせる。


エイヘムという男の子は緑と赤のスカーフを指差してこう言った。
「この写真を見ると故郷のことを思い出すんだ。パレスチナから追い出されたことを思い出すんだ。だから辛いんだ。」

またリームという女の子は彼女の祖父がピースサインをしてアルコッツと書いてある紙を指差している写真を指しながらこう言った。
「ビザがないからパレスチナ(アルコッツ)に帰れないの。この写真を見ると故郷を思い出すの。」

私たち日本人を快く笑顔で迎えてくれて、嬉しそうにカメラを手にして無邪気にはしゃぐ彼らが暗い表情をするのを私は初めて見た。


今回の私たちの旅をコーディネートしてくださった高遠さんによるとパレスチナ難民の子供達の中には、パレスチナでの記憶がほとんどなく、故郷のことは親から聞くしかない子供がたくさんいるそうだ。


私たち日本人は初対面の場合気兼ねなく出身はどこ?と聞き、そこはどんなところ?という会話を当たり前のようにする。

それがこの国、この子供達の中では当たり前ではないのだ。

故郷を自分の目で見ることができない、そこに吹く風を感じることができない、そこ独特の匂いを感じることができない。


彼らはどれほど複雑な思いでこの写真を撮ったのだろうか。


またイラク難民の子供達の中にはイラクからヨルダンに来てからまだ日が浅く、心の傷が深い子供がたくさんいる。カウンセリングを受け、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と戦っている。

目の前で父親が射殺された子供、自分を含めた家族全員に銃口をつきつけられた子供…。

彼らが心に受けた傷は私たちの想像をはるかに超えるものだろう。


高遠さんは私たちにこのようにおっしゃった。
「人の痛みを自分の痛みとして感じた時、それぞれのタイミングで動き出せばいい。」


この一週間のヨルダンでの旅の中で、ここには記しきれない貴重な体験をたくさんさせていただいた。


この経験を日本でどのように人に伝え、どのように動きだすか。


ヨルダンでの旅は明日で終わりだが、私の中で何かが動き始めている。

イベント局 2年 家市佳奈

2011年09月13日

変化を眺める

ここ、ヨルダンに来てホテルの前の大通りを歩いていると、女性がブルカと呼ばれる布をまとった姿が目に入る。気温は優に30度を超え、見ている側が暑いくらいの様相だ。日本にいると、生活の中で宗教色を見ることは少ないので、とても新鮮である。

しかしながら、僕は、こういった宗教文化というものが、ヨルダンではこの数年で、かなり廃れつつあるのではないか、と考えている。宗教には、様々な形があり、派閥があり、そのそれぞれに異なる風習、文化がある。しかし、今その形態がネットの発達で中道化しているからだ。90年代半ばに、インターネットができ、携帯電話が普及し、近年のSNS(ソーシャルネットワークサービス)の発達は著しい。
首都アンマンの街中の青年の服装は、スキニージーンズに、ピッタリとしたTシャツと、日本とあまり変わりないし、出会った若者は皆、フェイスブックを使って、海外の人びとと、交流していた。

僕が泊まっているホテルの受付のヨーセフはこう言った。
「個人の自由さ。その人の好きなようにすればいいんだ。」

このような、文化のグローバル化が、良いことか、悪いことかという議論を別にして、確かに文化が急激に変化している様子を、ヨルダンにいて、この目で見ていることが今はただ、とても面白い。

2011年09月11日

楽しさの裏に

私は今ヨルダンスタツア、4日目の夜を過ごしています。
アンマンの街にも慣れ、ショッピングや死海の観光、子供たちとのプロジェクトなど充実した日々を送っています。


このスタツアに参加する前、友人にヨルダンに行くというと、「気をつけて」という言葉をたくさん言われました。


私はそう言われる度、中東に行くからって危険だと決めつけるのはよくない、アメリカやイギリスもテロの危険はあるじゃないか、と思っていました。


そして実際ヨルダンに来てみると、治安もそれほど悪くなく、気さくでいい人ばかりで危険を感じることはあまりありません。


ではなぜヨルダンはシリア、イラク、イスラエルなどに囲まれているにも関わらず、安全を保っていられるのでしょうか。


今回のスタツアをアレンジメントしてくださった高遠さんによると、ヨルダンはパレスチナ難民、イラク難民などを多く受け入れている国であることが関係しているようです。


ヨルダンが政治的に不安定になってしまったらみんなが行き場をなくしてしまう、それをみんなが分かっているから革命がおきにくいそうです。


私はこの話を聞いて、ヨルダンは本当の意味での安全を手にいれてはいないのではないかと思いました。


私が、ヨルダンに来て安全ですごしやすい国だなと感じる裏には、難民が多いからという決して良いとは言えない理由があったのです。


「もし、何かがきっかけで民族同士ののバランスが崩れることがあればヨルダンはどうなってしまうのだろう」
「外交で資源の少ないヨルダンの政治バランスを保っている国王がいなくなったら」


ヨルダンを本当の意味で安全で平和な国だと言うためにはもっと根本的に問題を解決していくことが重要なのだと感じます。


今回のスタツアでイラク難民の子供と関わる中で無邪気な笑顔の奥にも、消しがたいトラウマを抱えているという事実を突きつけられました。

彼、彼女たちの心の傷の過去やその原因を全て無かったことにできれば、と無責任な思いを抱きました。

難民が出ないような、生まれた国から着の身着のまま逃げ出すことのないような、そんな世界が欲しいと心から思います。

2011年09月10日

『実感』

ヨルダンに来て3日が経ちました。


昨日私たちパレスチナチームはパレスチナ難民のこどもたちと,そしてイラクチームは今日イラク難民のこどもたちと『Focus on myself 』 のプロジェクトを行いました。

私がここに来て一番感じていることは,『実感』の大切さです。



『パレスチナ問題』『イラク戦争』と言う言葉だけなら誰だって必ず聞いたことがあるはずです。

にもかかわらず私たちは、少なくとも私は、学校の授業やメディアを通じてしか知りえないこうした問題を自分の問題として捉えられていませんでした。
『実感』することができていなかったのです。

しかし、ヨルダンを訪れ,パレスチナ難民のこどもたちの無邪気な笑顔を目の前にしたとき,ふと彼女たちが"パレスチナ難民"であることを思いだし,『パレスチナ問題』という今まで漠然としていた問題が急に自分に迫ってくるような感覚に襲われました。



どんなに遠い国であっても、どんなに危険な地域であっても、そこには私たちと何ら変わらない同じ無邪気な"笑顔"があって、同じ尊い"命"がある。

考えてみれば当たり前の、そんな事実を『実感』できる機会に恵まれ,私は今本当に充実した日々を送っています。


国際局 1年 配川瞳

ヨルダン 2日目

ヨルダンスタディツアー 2日目は
アンマン市内の観光、パレスチナ難民の子ども達を対象としたFoMプロジェクトの初日でした。


スタツア初参加の私は、
今まで日本人の多い観光地にしか行ったことがなかったので、
不安とFoMプロジェクトに対する期待が半分半分でした。


まだ2日しか経っていませんが、改めて自分の目で見て、感じることは大切なんだと実感しました。
もちろん、本やネットなどで学習し、知識を得ることも大切ですが
実際に自分で体験してみると
事前に得た知識とは違う知識、考えを得ることができます。


今日は、アンマン市内の観光、FoM、夕食のファルージャ料理で
多くの人と出会い、話を聞き、昨日とは違う見方でヨルダンを見ることができました。

FoMで出会ったパレスチナ難民の子ども達は
プロジェクト終了後に私たちに可愛らしい歌と踊りを見せてくれました。
その歌には、戦争で親を亡くした子ども達の想いが込められているそうです。
目一杯の笑顔で歌い踊っていたので、それを聞くまではそんな意味があるものだと全く想像もしていませんでした。

この衝撃は、実際に自分の目で見たからこそ感じられたものだと思います。




さて、
みなさんは、ヨルダンという国に対してどんなイメージを持っていますか?

最初、私は漠然と危ないというイメージを持っていました。
そして、私の周りにいる家族、友達もあまり馴染みのない国だったので同じ思いだったようです。
しかし、ヨルダンにいる人々はとてもフレンドリーで、過ごしやすく、初めのイメージとは全く違うものとなりました。


きっと、このスタツア期間中に
たくさんの人に出会い、また新たな発見をし、違った見方でヨルダンを見ることができると思います。
そして、スタツア終了後に、実際に自分で見て、感じたことをしっかりまとめられたらいいと思います。


イベント局 2年 津田菜摘

2011年09月09日

笑って

私達、学生団体S.A.Lはこの夏もいくつかのスタディツアーを計画し外国へと旅立った。

9月6日からは、約二週間のヨルダンスタディツアーが始まった。

一般的に、日本人にとって、中東地域のイメージはあまりいいものとは言えない。

「ヨルダンに行ってくる」
周りの友人や家族30人ほどにそう言ってみたが、「ヨルダンってどんな国?」「何が目的なの?」などと聞かれるより真っ先に返ってくる言葉は全て「気をつけてね」
「死なないでね」と、身を案じる言葉だった。

ガイドブック、インターネット、テレビ…様々なメディアから情報を手に入れることができる私達日本人。あらかじめ知ったことを確かめにいく、そんな旅行が多いなか、あまり日本人に馴染みの無いヨルダンの旅は一体どんな旅になるのだろうか。

海外経験はグアムだけ。
そんな私はこの日本から遠く離れた地でどんなことを感じることができるのだろうか。



様々な疑問や不安を抱えながらスタツアにやってきたが、この2日間だけでもいくつかの「気づき」があった。

なかでも私が気になったのは、ヨルダンで出会う人達の「笑顔」だ。

日本は観光地であっても、人に声をかけられると言えば、お店の客寄せがほとんどだろう。
しかし、アンマンでは道を歩くと、私達のようなアジア系の人間が珍しいのもあるだろうが、5秒に一回は「Hello!」「アッサラームアレイクム」などと声をかけられる。

また、現地時間9/8のお昼頃からはFocus on Myself(ヨルダン一日目のブログを参照して下さい)というプロジェクトで、パレスチナ難民の子ども達に会ったのだが、会った瞬間から笑顔で出迎えてくれた。
数時間の交流の後、今日はお別れ、となった際も頬にキスをし、抱きしめて「I love you!」と言ってくれた。

私は、フレンドリーに接してくれる子供達や市民の人の対応が純粋に嬉しかった。

しかし一方で、日本人としての私にはこのいつでも誰にでも「笑顔」が理解出来なかった。
戦争や人が身近で頻繁に死ぬということを、知らずに私は生きてきた。
アンマンで出会った人達は、家族が殺されたという背景を持っていたり、独裁政治の崩壊後、逆にとても貧しい生活を強いられたりしたという。
パレスチナ難民の子供達は、親から受け継いだパレスチナのアイデンティティを持ちながらも、ヨルダンで生まれ、2つの国のナショナリズムに挟まれているという状況があるようだ。

私には、想像できないような経験を経ても、いつでも笑顔を見せてくれるヨルダンの人々。

今の私にはその笑顔の理由が分からなかった。
この残りの期間で理由は見つかるのだろうか。
国の違い、というと国際問題、マイナス面に思いがちだが、この「笑顔」からの疑問にいつか答えを出したいと思う。

広報局 1年 北村 瞳








【ユーラシア横断スタツア:ヨルダン】大人として


今日はFOMというプロジェクトの為にパレスチナの子供達に会いに行きました。



半分以上が女の子だったのですが、パレスチナの子供達は皆整った顔立ちでした。カメラを通じて子供達と交流する中、ふと今までのスタディツアーや旅行で知り合った子供達のことを思い出した。



カンボジアのバサックスラムという場所で出会った子供達は人懐っこく、一緒に遊ぼうとしつこいくらいにせがんできた。



チベットで出会った子供達は家畜の世話が大変だから嫌だと話していたが、カメラを渡すとキラキラした目で写真を撮ることに夢中になっていた。


インドネシアの村で出会った子供達は僕のことを見かける度に「日本人!」と呼びながら挨拶をしてきて、名前を教えるとすぐに覚えて名前を呼んできた。


日本の子供達は元気にひたすら鬼ごっこを繰り返し、飽きること無く僕のことを追いかけてきた。




僕はいくつかの国で様々な人達と触れ合う機会に恵まれたが、出会った子供達は皆キラキラした瞳で僕のことを見つめ、遊ぼうとせがんできた。



裕福な家庭の子供、貧しい家庭の子供、親のいない子供、大家族の子供、女の子、男の子、イスラム教徒の子供、仏教徒の子供・・・。



色々な違いのある様々な子供達だが、皆同じように澄んだ瞳を持ち、力強い生命力を持っているように思えた。



世界では、銃を持たされる子供達がいると聞いたことがある。詐欺を手伝わされる子供達がいると聞いたことがある。売られて売春を強要される子供達がいると聞いたことがある。



もし澄んでいない瞳を持った子供達や、生きる力強さ、子供本来の純真さを持たない子供達がいるならば、それは僕ら大人が子供達へ与えた影響の結果なのではないだろうか。



僕ら大人は、今後の将来を担って行く子供達が澄んだ瞳を持った大人になることができるように考えるべきだと思う。


そんなことを考えながら、ヨルダンに住むパレスチナ人の子供達と遊び、彼らの美しい澄んだ瞳が永遠に曇らないようにすることが僕ら大人の責任だろうな、と感じた。


【イベント局 4年 星野 直人】

ヨルダン一日目


私たちヨルダンスタディツアー組は
24時間以上にわたる長旅を終え、
昨夜無地ヨルダンの首都アンマンに降り立ちました。
ユーラシア横断組とも合流し、総勢24名の大所帯です。


空港からの道のりでみた砂漠の世界に始まり、
砂色の四角い建物、アラビア語の看板、街に遺った遺跡、
乾いた風、毎日決まった時間に街中に響くコーラン。

早速現地の方や難民の方ともお話しする機会をいただき、
五感をたくさん使った一日でした。


今日からの約10日間、ここで何を見て何を感じるか。
空港に向かうバスの中では何を思って窓の外を見つめているか。
考えるだけでわくわくします。



さて、今回のスタディツアーで行うFocus on Myselfプロジェクトについて紹介したいと思います。

このプロジェクトでは、
訪れた国のこどもたちにインスタントカメラを手渡し、
『大切なもの』『つらいもの』『自分の国の紹介』の3つのテーマに沿って写真を撮ってきてもらいます。

その後一人一人へのインタビューを行い、写真を撮った理由をききます。
こどもたちの視点から、彼らの日常や世界観を垣間みることができるのです。

Focus on MyselfはS.A.L.で最も歴史のあるプロジェクトで、
ヨルダンはカンボジア、日本、チベット、インドに続く5ヶ国目となります。

プロジェクト開始以来、増え続けるこどもたちの写真は、3000枚を超えました。
一枚一枚の写真に物語があり、テレビや新聞とは違う気付きがあります。


今回はヨルダンにてパレスチナ難民のこどもたち、イラク難民のこどもたちに写真を撮ってきてもらえることになりました。

1948年にイスラエルが建国されて以来、祖国を追い出されたパレスチナ難民。
ヨルダンの人口の7割はパレスチナ難民が占めているとも言われています。

パレスチナ難民の第2世代、既にヨルダン人となったこどもたちは、
どのようなアイデンティティーを感じているのでしょうか。


そしてちょうど10年前の9月11日、
アメリカでの同時多発テロをきっかけに始まったイラク戦争、
激化する宗教対立で混沌としたイラクからの難民。

移り変わる世界において人々の関心は薄れつつあるかもしれないけれど、
難民は今も増え続け、厳しい生活を強いられている人がたくさんいます。


今、彼らのファインダー越しにどんな世界が見えるでしょうか。
それは私たちの目、写真を見た人の目にどう映るのでしょうか。


ヨルダンスタディーツアーのはじまりです。

2011年09月05日

ヨルダン出発前夜


明日の夜
ついにヨルダンに向かって旅立ちます。

ユーラシア組やインド組に遅ればせながら
ついに明日からヨルダンスタディツアーも始まるのです。



つまり、

私はまだ日本、東京、目黒区の自宅にいるわけですね。
他のスタツアブログのように、
現地の生々しいにおいや、熱気、人々のざわめきを伝えるような
そんなすてきな記事をお届けすることはできないのです。残念。



ここで、
私は自分が実際に「旅をする」ことが与えてくれるものって何だろう、
と考えました。


スタツア初参加の私は、
漠然と、自分の目で見て、肌で感じることが、旅をすることなのかな
と最近までは思っていたのです。

しかし、この夏、広島・長崎の平和祈念式典に参加して考えが変わりました。
実際、式典自体は私たちのような「よそ者」、観光客のような外部の人間ばかりで、
地元の人にとっては実はいつもの日々と何一つ変わらない一日で、
なんだか形式だけの、形骸化されたセレモニーだな、と私は感じていました。


しかし、次の日の夜、宮島の茶店のおじいちゃんとおばあちゃんと仲良くなって
いろいろ話をしていく中で

「小中高生はそれぞれ学校で平和学習をして、祈りをささげているんよ」
とか、

「宮島の被爆した人は、8時15分には爆心地の方向に向かって黙祷をしとるんよ」
とか、

実は広島において8月6日は静かに喪に服す日だったんだ、とか
被爆をした人たちはあの日救えなかった命を今でも悔やんで、
その傷口を隠すように8月6日という日を
あえて何事もなかったかのように過ごしているんだとか

そんな話を聞きました。



「よそ者」ばっかり集まっている、形だけの表面的なセレモニーだなんて、
それこそ私たちよそ者が表面だけを見て、
そんな風に奥まで入り込んでちゃんと知ろうとしない、
勝手な思い込みと偏見で
そんなことを被爆2世のおばあちゃんにぬけぬけと言った自分が
なんだか恥ずかしくなりました。



長々と何を言いたかったかというと、
ある物事において自分の思う表面的な部分だけ見て
わかったような気になるのではなくて
その背景にある歴史や人々の思いや本当に考えられていることに
できるだけ近づいて理解して、自分の視点にしたいということです。


英語の和訳をするとき、
単純に言葉を訳すのではなく、
その背景にあるその国の慣習や価値観を考えながら訳せとよく言われますよね。

それと同じことで
言葉の奥に広がる世界を想像するように
私達が知っている事象のその奥に触れてみたいと思うのです。



こんなに長い文章におつきあいいただいて、
こんなに一般的な結論におちついてごめんなさい。


怪我や病気のないよう、
気をつけていってきたいと思います。


すべてのみなさんの旅が実りあるものになりますように!


(文責・広報局3年黒島)
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