2011年09月23日

【ユーラシア横断スタツア】あなたは象を見たことがあるか

象を知らない盲目の人が象と出会ったとき、彼は象をどう捉えるだろうか。

まず彼は象に触れて、象というものを知ろうとするだろう。

どこに触れるのだろう。鼻だろうか。耳だろうか。足だろうか。胴だろうか。

もし彼が牙に触れるのなら、彼はきっと象という動物をこう定義するはずだ。

「ああ、象というのはつるつるすべすべしていて、細長い動物なんだ」


このような無邪気な誤解は、僕らにも一般に起こりうる。例えばあなたは、イスラームと聞いて何を思い浮かべるだろうか。

平均的な日本人だったらこう答えるはずだ。

テロリスト、と。

僕らが日本に住んでいる限り、地理的にも文化的にも遠く離れたイスラームの人々と直接に接触する機会はほとんどない。
だから、僕らが持ちあわせるイスラームの情報というものは、伝聞に依存せざるをえなくなってしまう。
それはたとえば教科書だったり、報道だったりする。

日本のテレビに彼らが登場するシーンはとても限定されている。彼らが僕らの前に現れるのは、世界のどこかで爆発騒ぎがあったときに、「イスラム系過激派武装勢力による犯行」などという仰々しいフレーズとともに、と決まっている。

だから、僕らはイスラームという文化に恐怖を抱くようになる。ムスリムとの接触を忌避するようになる。彼らの国を訪ねれば、いつか報道でみた邦人誘拐の被害に自分もあうのではないかという危惧。はたまた、テロに巻き込まれるのではないかという恐怖。

これが、僕ら日本人の抱く一般的なイスラーム像なのだと思う。


しかし、実際に彼らの国を訪ねてみると、この認識は事実といささか乖離していることがわかる。

あるヨルダンのムスリムが僕にこういった。

「確かに僕らはアメリカ政府がキライだ。日本政府にもキライなところがある。でも、だからといってアメリカ国民や日本国民までもがキライなわけじゃない。お互い人間なんだ。」

「だから、僕はテロがキライだ。僕らはなにも罪なき市民の死を望んでなんかいないんだ。」

ヨルダンはイスラム国家のなかでももっとも宗教的に穏健な国のひとつで、首都アンマンにはまるでテロとは無縁、いたって平和な日常が流れていた。

僕は、穏健なヨルダンという土地柄も手伝ってだろうが、このような声をなんども耳にした。

そもそも、実際に武力行使をする人々は、ムスリムのなかでも過激と呼ばれる極少数派なのだ、という事実を忘れてはならない。

加えて、どんな武力行使にも背景がある。

僕らがテロと呼ぶその営為の背景には、命を懸けるに値するほどの憤怒が横たわっていることを、僕はパレスチナ人やクルド人の言葉の端々から感じた。



ところで、教科書には「ムスリムは酒を飲まない」とあったけれど、世俗化したトルコの街には酔っぱらいのムスリムが千鳥足で歩いている。

それどころか、教科書やニュースで観るような、赤いスカーフに白装束といった民族衣装を着た人々は、少なくともイスタンブールにはほとんどいない。彼らは僕らと同じような洋服を着て町を歩いている。

彼らは使用する文字までもアルファベットだ。トルコ語は、アラビア語をアルファベットに置き換えるかたちで20世紀初頭に生み出された、世俗化の象徴たる言語なのだ。

僕はびっくりして、思わず彼らに問いかけてしまった。

「え、あなたは本当にムスリムなの?」

彼らは堂々と答える。

「ああ、もちろんムスリムさ。」


こんなイスラームも、世界にはあるのだ。



確かに、教科書も報道も事実を述べてはいるだろう。イスラム教の聖典であるクルアーンの教えによると、確かにムスリムは飲酒を禁止されている。世界各地で、イスラム系武装勢力による武力行使が多発しているのも事実だ。

しかし、これは僕らにとって、象牙の写真を見せられて「これが象です」と言われているようなものである。確かに、象牙は象の一部分であるから、象を語るのに象牙の記述は必要不可欠だろう。だがしかし、これをもって全てとするような解釈は多分に表層的かつ一面的でしかない。実際に象を目の当たりにしてみれば、これがいかに偏狭な理解であったかを痛感することになる。

不幸にして僕らは象牙の写真を見てこれが象なのだと盲目的に信じてしまう。何故なら、世界にはこれが象そのものだと言わんばかりに象牙の写真が溢れているし、なにより、僕らは本物の象を見たことがないから。

イスラームに限らず、もし真剣に世界と向きあおうと思うのならば、僕らはこれ以上、象牙の写真を見つめつづけるわけにはいかないだろう。
そればかりを見ていては、文化的誤解が更に深まってゆくばかりだ。
そしてその誤解は、これまで世界に幾度もの衝突をもたらしてきた。
世界は相互不信に陥って、お互いにお互いを傷つけあってきた。
僕らが象牙の写真を信じ続ける限り、これからもこの不幸は続くだろう。

だから、僕らには象の姿というものを真に知る必要があると思うのだ。
まだまだ理解は足りないだろうけれど、でも、僕が今まで見てきたものは象牙にすぎなかったという認識をもたらしてくれた点で、僕は今回のスタディーツアーに大きな意義を感じた。


そしてこれからも僕らは世界中の象を見るためにこれからも外へ繰り出してゆく。

世界をよりリアルに理解するために。

国際問題啓発団体S.A.L.として、僕らが目の当たりにした象の鼻の長さや体つきの逞しさを、この象牙の写真に溢れる世界に発信してゆくために。



文責:国際局 高田湧太郎
posted by S.A.L. at 01:19 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月12日

【ユーラシア横断スタツア:ヨルダン】サナおばさんの9.11

ぼくが9月11日をどう思うかを聞くと、サナおばさんはゆっくりと、そして流暢な英語で話しはじめた。

「同時多発テロが起きたときわたしは、よし、アメリカが攻撃された。よくやった、と思ってしまいました」。

*

サナおばさんはイラク難民の女性だ。夫はもともと大学院の教授で、彼女自身もイギリスで暮らしていた経験がある。知識層であったがために、フセイン政権崩壊後には武装勢力に連れされさられた。いま、彼女は一家でイラクからヨルダンに逃げ、アンマンで難民として暮らしている。

*

「しかしわたしは考え直したんです。9月11日のその日、無垢な人々がたくさんあのビルにはいて、みんな死んでしまった。もしもわたしの家族、息子や娘が彼らと同じようにあのビルの中にいたら。そう考えると、わたしはとても悲しくなるんです。日本人も含め、多くのアラブ人も犠牲になっている。すべてのひとびとは、みんな無垢なひとびとだったののです」。

サナおばさんは一息ついて、続けた。

「だからわたしはほんとうに、彼らに申し訳ないと感じています」。

同時多発テロのことを、いちどでも「よし」と思ってしまった自分を、彼女は責めていた。「無垢な人々は、政府とは関係がないのに」。アメリカの政府は嫌いだという彼女も、アメリカのひとびとを嫌いだとは思っていないのだ。

*

アメリカ政府がイラクでしてきたことを、彼女は身をもって経験してきた。だから彼女はアメリカ政府が嫌いだ。彼女のとある友人は3年前、自宅にいるところを爆撃された。粉々にされた彼女の家々から見つかったのは、たったひとつのキーホルダーだけだった。「そんなことがイラクでは何百も、それ以上も起きているんですよ」。そう語るサナおばさんの表情は、とても硬かった。

「アメリカ政府は泥棒とおなじです。豊かな国だったイラクから(二度の)戦争で、石油を奪っていったから」。

*

きょう、9月11日。同時多発テロ10年目の日に、ぼくはイラク難民の家で、彼女自身の口から、彼女の「9.11」を聞いた。

「サナおばさんの9.11」は、ぼくにとっての9.11をおおきく変えた。単なるテレビの中の出来事でも、歴史上の出来事でもない「9.11」が、そこにはあった。それは彼女たちにイラク難民にとって、そしてその他のイラク人、アフガン人にとって、紛れもなく「自分の人生を変えた出来事」だったのだ。

彼女の大好きだったイラクは破壊されつくされ、彼女は自分の国を捨てざるを得なくなった。彼女が伝統的なアラブ菓子を振る舞いながら見せてくれる笑顔の裏側には、ぼくには到底理解し得ない悲しみと、悩みがあったに違いない。

*

宿で出会った香港人にこの話をしたら、彼はぼくに尋ねた。「君はそういう経験をしたうえで、日本に帰ったらイラクの人たちにどうしたいの?なにができるの?」

ぼくはこの10年間、なにをして来たんだろう。そしてこのあとの10年間、ぼくにはいったいなにができるんだろう。

【広報局4年 はたちこうた】
  
posted by S.A.L. at 09:12 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月11日

【ユーラシア大陸横断スタツア:ヨルダン】誤解。

僕はイスラム教に対して大きな誤解をしていたようだ。イスラム教と聞くと「テロ」や「過激な宗教」といった負のイメージが意識せずとも浮かんでしまう。しかし本来、イスラム教は平和を重視する宗教である。それを表すように、アラビア語で挨拶をする時に使う、アッサラームアレイコムの厳密な意味は「あなたの上に平和が訪れますように」である。


僕らはいま、ヨルダンの首都、アンマンにいる。ここで僕らはイラク戦争によって難民となってしまった人々と一緒に過ごす機会に恵まれた。僕はここで、自分がどこか他人事に感じてしまっていた「イラク戦争」の、今なお当事者であることを自覚した。

日本は戦争時、イラクに対し自衛隊を派遣した。もちろんそれは軍事行為を行うためでなく、人道復興支援のためであった。実際に医療支援や給水、公共設備の復旧など、多くのイラクの人々にとって役立つ活動であった。

ところが残念なことに、少なからず誤解も起きてしまった。「日本には軍隊はないと聞いていたのに、日本軍がアメリカ軍と一緒にやってきた」。たしかにイラクの人々からすれば、米軍と一緒になってやってきて、最新の武器を持ち、迷彩服を着た自衛隊が自国を占領しにきた「軍隊」だと見えてしまってもさほど不思議ではない。日本はアメリカを止めることができた数少ない国であったのに、そうせずアメリカに「加担」したのだと反感をもつ人々は今でもいるという。

僕にはアメリカが始めたイラク戦争が正しかったのか、日本の自衛隊派遣が正しかったのかは分からない。ただ、大きな海を隔てて誤解が生まれてしまったことだけは確かだ。戦争が終わった今、この誤解を解けるのは、人と人との関わりあいだけなのかもしれない。それはちょうど、僕のイスラム教への誤解が柔なかなものへと変わったのと同じように。

僕は彼らと出会ったら、傍観者としてではなく一人の日本人として、心をこめてこう言おう。

アッサラームアレイコム(あなたの上に平和が訪れますように)。

文責:杉本将太
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2011年09月10日

【ユーラシア横断スタツア:ドバイ】美しさの果ては

(ブログ更新が遅れ、ごめんなさい。ユーラシア組はいまヨルダンにいすが、今日はドバイに関する日記を掲載します)

ドバイの夜はほんとうに煌びやかだ。高さ800mのブルジュ・ハリファを中心に延々と続くビル群。真っ直ぐに整備された片側6車線の道路、その上を颯爽と駆け抜けるドバイ・メトロ。なにもかもが緻密に計算され、デザインされたうえに成り立っている。

躍動する都市、沸騰都市、中東の中心地、世界経済の中心地。ドバイを表す美辞麗句を並べれば、それはそれはキリがない。事実、その言葉たちに相応しい様相をドバイは見せているし、ぼくらもその姿に魅了されていたことは間違いない。夜のドバイ・メトロに乗って街を見下ろせば、そこはまさに「未来都市」そのものだ。

しかしなんだか、ぼくはその「計算され尽くした未来都市」に違和感を覚えた。そこには「人間らしさ」がなかったからだ。生活感、といったほうがよいのだろうか。市場やそこに集まるひとびと、飛び交う怒鳴り声やクラクション。そんな暑苦しい、生々しい生活感。ごちゃごちゃで無秩序で、でもなんだかそこに隠れる温かみ。それが、ドバイにはない。

ぼくがインドからドバイに入ったから、余りにも大き過ぎるギャップに気持ちが追いついていなかったのかもしれない。日本にだって、そんな生活感はないかもしれない。いや、それにしてもドバイはぼくにとってやっぱり「無機質」だった。

きっとドバイは、あまりにも合理的過ぎるんだと思う。合理的過ぎるがゆえに美しい。たしかにそれは便利だし、綺麗だし、未来的だ。しかしそこで「無駄」「邪魔」「汚い」と、排除されてしまうものたちがある。ぼくはそこにこそ、ほんとうの人間らしさが隠れているのではないだろうか。

合理性を追求し過ぎるがゆえに消えてしまう、人間の繊細さや雑さや、面白さ。その分手に入る、美しさや統一性や、便利さ。どちらを生かし、どちらを殺すかはわたしたち次第だけれども、ドバイを見ていると、ぼくはちょっぴり寂しくなる。

ふとドバイの裏路地に迷い込んだとき、野良猫と出会った。そういえばドバイでは、こういう動物たちも滅多に見ることがなかった。野良猫はぼくに気がつくと、が寂しそうに「にゃあ」と鳴いた。その後ろでは、ブルジュ・ハリファが独り、堂々と空に向かってそびえ立っていた。

【広報局4年 はたちこうた】

posted by S.A.L. at 05:39 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月07日

[ユーラシア大陸横断スタツア:インド]インド嫌いの処方箋。



僕はインドが嫌いだ。

初めてのインドに到着して、すぐに僕が口にした言葉だ。インドの第一印象は、まずなによりも不衛生さが際立つことだった。道には際限なくゴミが捨てられている。道の真ん中に堂々と、牛のフンが横たわっていた。ゴミとフンと湿気で街全体から異常な臭いが発せられ、もしも日本でやったら誰もが振り返るような音量で、クラクションが鳴り響く。道を聞けば違う方向を指さされ、値段を聞けばぼったくられる。僕は彼らのバイタリティに圧倒され、そして拒絶した。


それでもしばらく滞在するうちに、彼らの根底が見えてくる。毎日新しい発見がある。

例えばインドのクラクション。無闇に鳴らしているようで、実はそうでもない。日本ではクラクションは主に「危ない!」という意味で使われている。一方でインドでは車や自転車やリクーシャが縦横無尽に走っているため、事故を減らすためにより密なドライバー同士のコミュニケーションが必要なのだ。だから彼らはクラクションを「俺はここにいるからみんな気をつけてよね!」という、かなりソフトな意味で使っている。そう思うとあの騒音も、あまり気にならなくなってくる。

また、彼らは自身のコミュニティを大事にする。コミュニティ内の人間には、とても親切に接するようだ。料金をふっかけてくるのは、僕らが部外者であるから。だけど、ときどき彼らのコミュニティに入り込めることもある。仲良くなったインド人のおじさんに、家に招いてもらった時のこと。親切にも、僕らは彼に夕飯をご馳走になった。地べたに座りながら、素手でかきこむようにして食べたカレーの味と、彼への感謝の気持ちは忘れられない。

ゴミに溢れた街だって、ふと見上げれば日本よりも大きな空が広がっている。僕らが語り明かした後に見た、ガンジーから登る壮大な朝日は、他のどんな夜明けよりもロマンチックだ。


僕らは一人一人が自分の価値観を計るモノサシを持っている。そのモノサシはとても大切なのだけど、いつも正しいとは限らない。だから時には、自分の価値観のモノサシを変形させることも必要だ。もしそうしたいと思ったら、ただ純粋に相手を知ろうとすればいい。その国を知りたいと思えばいい。そうすれば、世界は変わって見えてくる。大きな何かを受け入れられるようになる。

僕らは今、ドバイに向かっている。このガサツな国、インドからもとうとうお別れだ。そこで最後にひとつ、訂正させてほしい。

僕はインドが大好きだ。



文責:杉本将太

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2011年09月06日

【ユーラシア横断スタツア:インド、ヴァラーナス】色鉛筆


箱の中に何色もの色鉛筆があるかのような、様々な人種、もの、風景、伝統、そして文化。それらが「インド」という国を織りなす。そこにはまるで一つの宇宙が存在しているかのようだ。


これが、インドという国を表現するのによく使われる言葉であるように思う。


人生三回目の大国インド。昨夏に初めて訪れて以来、ちょうど1年が経った。季節が日本であるように、インドでもそれは姿を見せる。雨季と乾季。景色を装飾する紅葉や雪のような四季の風物詩というものは、この国では見受けられないが、春夏秋冬はしっかりと存在する。


変化はどの国にもやってくる。私のような旅行者である他者からすれば、それぞれの訪問する国に対する理想像とまではいかないまでも、イメージは持っているだろう。インドに対しても決して例外ではない。


汚い。臭い。騙される。そして牛。


これが私の抱いていたそれである。今でも多少は、そう感じてしまうことは否めない。ただ、そんな私のイメージも崩れ去る日は近いのかもしれない。着実に姿を変えようとしているのだ。


インドには多くの牛がいる。道を歩けば一人の人間とすれ違ったかのように、当たり前の風景としてそこに溶け込む。我が道と言わんばかりに身体を揺らしながら歩く巨体たち。その糞によって汚された道と、鼻を突く悪臭。そんな愛着が湧くような、インドらしい風景もなくなりつつある。今年、2月から3月にかけて行われた、クリケットオリンピック。主催地となったのは、インドと隣国バングラデシュ。景観を良くしようと、この国を代表する宗教であるヒンドゥー教が神様と崇める牛にメスがかかった。街をきれいにすることを目的に、飼い主たちは1,2頭しか外に放してはいけず、それ以外は家の敷地内に入れておかなければならないという。


また、この国にはリキシャというタクシーのような乗り物がある。近場ならばそれに乗って格安で移動することができる。言わば、庶民の味方だ。そんな便利な道具も変化を見せた。日本では当たり前である「メーター」がついたのだ。この国の一つの特徴してある、何を買うにもどこに行くにも付いて回る値段交渉。メーターという決められた運賃は、ドライバーと私たちとの最初のコミュニケーションを取り除いた。これもクリケットオリンピックの影響なのか。そう考えながら、呆然とメーターに光る数字を見つめ続ける私がいた。


そんな変化は、首都デリーから徐々に他の地域に広がっていく。私が今回行ったカシミール地方シュリナガル、ラダック地方レー、そして眼下にガンジス川が広がるヴァラーナスにもリキシャは相変わらず走っていた。しかし、そこにはメーターはない。多くの牛が闊歩する姿も健在だ。私の持つインドという国のイメージの崩れの波は、いつ隣国との国境まで流れいってしまうのか。


人間は絶えず変化を求める生き物だ。だが、ただ変わるのではなく、ときに保つことも必要である。「不易流行」。江戸時代の俳人松尾芭蕉が用いた言葉である。永遠性と流動性の根本的一致。両者の尊重、そしていずれかへの選択に際し、慎重さを軽んじてはならない。絶えず変化し続けるこの世界で、インドという箱の中に眠る色鉛筆がそれぞれの輝きを鈍らせないように。そんな風に願いつつ、広大な大地を飛行機の機内から見つめながら3度目の別れを惜しんだ。

【文責:広報局 瀬谷健介】
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2011年09月05日

【ユーラシア横断スタツア:インド・ヴァラナシ】「死」の価値観

*

ひとの人生は2つのもので成り立っていると思う。それは「生きていること」と、「死ぬこと
」の2つだ。

死後の世界の存在は、それぞれの信仰によってあったりなかったりだが、人生が、生きている状態と死ぬ瞬間で成り立っているのは明白だと思う。

インドのヴァラナシで、僕はそんな人生の「生きていること」「死ぬこと」について考えさせられた。

とりわけ、「死」の価値観に関しては、一種のカルチャーショックを受けたのだった。

*

ヴァラナシを初めて訪れたその
日、僕はガンジス河沿いの火葬場を訪れた。

そこはたくさんの人でごった返し、前に進もうにも体をひねりながら歩かねばならなかった。

人混みを抜けると、そこに派手な装飾がなされた黄色い布を纏った何かが横たわっていた。
それは人間の死体だった。
さらに横に目をやると、薄い布を纏っただけの別の死体があったのだ。僕は赤の他人のデスマスクを見た。

火葬場へ上がると、僕がいた場所が風下だったせいで、炎の熱風と人間の遺灰が一気に吹きつけてきた。あまりの熱さに、10秒と見ていることができなかった。

*

一連の出来事に僕はいたく不快感を覚えた。きっとそれは、僕がごく一般的な日本人的価値観の持ち主だからだと思う。何の価値観かといえば、それは「死」の価値観である。

日本人の死の扱いや死の受け止め方には、後ろめたい気持ちを孕んでいるように思う。

例えば日本のお葬式。参列者は故人の家族・友人・学校や会社の知り合いなど、知り合いの範囲にとどまり閉鎖的である。
式自体は厳粛な空気の中進行し、とりわけ静かだ。
式場には悲壮感がたちこめ、葬式はある意味で、故人の死を弔うというより悲しむもののようにも見える。

人の死に対してこのようなスタンスをとる日本で生まれ育った身としては、見知らぬ人のデスマスクを見たり、遺灰を全身に浴びたりして不快感を感じるのはごく自然なことだと思う。

しかし、ヴァラナシの人々はそれを不快とは思わない。公衆に開かれた火葬は、彼らの日常生活のすぐそばにあり、もはやそれに溶け込んでいる。

そもそもヴァラナシという土地はヒンドゥー教の聖地であり、人々はこの地で死に、自らの遺灰をガンジス河に流すことを望んでいる。

貧しい人の中には、ヴァラナシまでの何百キロという距離を徒歩で向かう者もいるのだ。彼らはどんなに貧しく苦しい生活が続いても、ヴァラナシにさえ辿り着ければ、という強い意志を持ってこの地にやってくる。そうして辿り着いたヴァラナシの路上で息を引き取る人がたくさんいる。

日本人の僕からすれば、あまりに壮絶な死に方にも思える。ただ、人は誰しもが毎日死に向かって邁進していて、死に向かうレールから外れる者などいない。

それを思うと、希望を持ってヴァラナシへ向かうヒンドゥー教徒は、日本人と違って、死に対して非常に前向きと言える。

そしてその死を受け入れるヴァラナシの人々は、僕たちとは違った「死」の価値観をもつ。
母なるガンジス河のように、大らかに人々の死を優しく迎え入れるのだ。

*

どんな価値観が正しいというのではない。ただ、死に対して前向きな姿勢が、インド人の強さや、喧騒の中日々生きる彼らのヴァイタリティーに繋がっているのではないかと僕は感じた。

「死」の価値観は、きっと彼らの生き方を決定づけているのだろう。

[文責:2年 川又友輔]
posted by S.A.L. at 15:12 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【ユーラシア横断スタツア:インド・アーグラー】魅惑の街アーグラー

あなたがもしインドにやってきたならば、おそらくきっと訪れるであろう街がある。

それは、かの有名なタージ・マハルが佇む、アーグラーという街だ。

神々しいまでに白く輝くその姿に、訪れる旅人はみな息を呑む。そしてそれに寄り添うかのように、 廟の周辺にはインド風の下町が広がる。

もともと、タージ・マハルはインド固有の文化に由来しない。その完璧なまでのシンメトリーが示すように、これはイスラム建築である。

いまやヒンドゥー教が国内を席巻するインドであるが、かつてこの地にイスラーム勢力が流入し、ムガル帝国とよばれるイスラーム国家が成立したことがある。最盛期を飾ったのは、時の王、シャー・ジャハーン。このタージ・マハルは、彼の妃であるムムターズ・マハルのお墓として建設されたものなのである。

こういう歴史的背景を受けて、このタージ・マハルは、インドを代表する建築物でありながら、インドに散在するヒンドゥー教寺院はおろか、一般の街並みからも一線を画した、まったくインドらしくない容貌を身に纏っている。
インドを旅して、ヒンドゥー教圏としてのインドというイメージが頭のなかに定着していると、タージ・マハルの外と内における、インド/非インドのギャップに度肝を抜かれることになる。

そんなタージ・マハルの非インド性を求めてか、タージ・マハルには外国人のみならず、インド国内各地からインド人観光客が数多やってくる。それも、イスラム教徒ではなく、ヒンドゥー教徒が多数を占める。

そして興味深いことに、タージ・マハルの「内」にいる彼らは、その「外」のインド人と比較して、また異質な存在である。

アーグラーにはタージ・マハルを求めて多くの外国人がやってくるから、その門外では、必然的に旅行者向けにビジネスを展開するインド人が多くなる。リクシャーの運転手、物売り、ガイド、仕事は様々だ。

そんな「外」の彼らは外国人慣れしているため、割と流暢な英語で僕らに話しかけてくる。善人の仮面を被って僕らに近づき、そしてスキあらば僕らの財布の紐を緩めることを狙う、いわば旅人ナイズドされたインド人というわけだ。

一方で、「内」で観光を楽しむインド人は、ふだん旅行者と接する機会のない、一般のインド人である。彼らはふつうの学生であったり、ふつうのサラリーマンであったりする。僕ら旅人とは縁のない、ピュアなインド人といえるだろう。

そんな「外」と「内」とでは、僕らと彼らのコミュニケーションのありかたはまったく異なったものになる。

「外」では基本的にビジネス上のお客様として見られている僕らが、「内」では外国人という好奇の対象で見られることになる。

そしてみな、「外」とは比べ物にならないほど拙い英語で、”1 photo! 1 photo!”と、僕らに言い寄ってくる。

「外」ではこれは「写真を売ってやるから金をよこせ」ということを意味するが、「内」では「あなたと一緒に記念撮影をさせてください!」という意味になる。そしてタージ・マハルの敷地内にあるモスクのなかで、僕らの前には僕らと記念写真を撮ろうとするインド人の行列ができた。こんなこと、「外」じゃありえなかった。

「内」では、僕らの関係にお金が絡んでいないから、他愛もない、純粋なインド人とのコミュニケーションが楽しめる。純粋な、一般のインド人がみれる。ひょっとしたら、おかしな話ではあるが、アーグラーにおいて、旅人ナイズドされてない、本当のインド人とのコミュニケーションを楽しめるのは、本来非インドのはずのタージ・マハル「内」においてのみの話なのかもしれない。

アーグラーはあらゆる意味で不思議で魅力的な街である。この街を明日の朝去ってしまうのがほんとうに名残惜しいくらいに。


文責:国際局 高田湧太郎
posted by S.A.L. at 04:15 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月03日

【ユーラシア横断スタツア:インド・アーグラ】考えて、感じて、行動して

みなさんこんばんは、インドにいるS.A.L.4年の星野です。
僕は8月17日から8月31日までをインドネシアで過ごし、1日にインドに到着しました。昨日デリーを出発してアーグラに着きました。
いくつかの国を旅しましたが、その中でも今回の初インドはかなり衝撃的です。

まず、到着して空港でタクシーを探しているところ、他のタクシーよりも安いタクシーを見つけ乗り込みました。
そのタクシーに、友人が先に宿泊しているホテル名を伝えると、「道が分からない」と言いながらなぜか有名な名前の旅行代理店に連れていかれました。その代理店の店主は日本語が話せたのでホテル名を伝えて電話をしてもらいました。
しかし、友人は2人泊まっているはずなのに1人しかいないと言われ、夜の12時なのに友人は外に出ていて忙しいと言われました。
さらに、ホテルは予約済みなのに満員だと言われ、旅行代理店の店主に他のホテルを勧められました。

そんなわけあるか!

旅行代理店の店主がかけている電話はどう見ても内線の番号です。
友人の携帯に電話かけるから、電話をかしてくれと言うと、「この電話は携帯にはかけられないんだ」。

そんなわけあるか!


事前に地球の歩き方なるガイドブックのトラブルのページをじっくりと読み込んでいた僕は、ほぼ全く同じ詐欺の記事を知っていました。有名な代理店の名前を語った手口なのです。
そんなこんなでとりあえずホテルに連れて行ってくれと言ってホテルに連れて行ってもらうと、ホテルのおっちゃんは「それは悪い奴らだね」みたいなことを言ってました。
他にも何度か騙されそうになりましたが、頼もしい友人のおかげでなんとかなりました。

どこの国に旅行したとしてもさまざまな危険がつきものだと思います。だからと言ってどこでも危険だから何もしないのは違います。
海外での旅を楽しい思い出にするためには、事前にきちんと現地のことを調べて知識をつけて、「郷に入っては郷に従え」とあるように日本ではなく外国にいるという自覚を持った行動が大切だと実感しました。



お腹がアレな僕ですが、今からご飯を食べてきます。ほぼカレーしかないです。僕は、カレーライスが大好きな日本人なので、毎日3食がカレーでも全く飽きません。


そんなわけあるか!


旅は自分の価値観を広げてより大きな人間へ成長できる場です。その為には、ただなんとなく旅するのではなく、知識を得て様々な行動をして多くの人と触れ合って・・・とたくさん考えてたくさん感じることが大事だと思います。
みなさんも旅を楽しんで様々なことを感じてみてください。




Get Excited!

4年 イベント局 星野 直人
posted by S.A.L. at 23:18 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月02日

【ユーラシア横断スタツア:インド・ヴァラーナス】その価値を決めるのはあなた

僕らは今、インドのヴァラーナスで過している。
ここはまるで映画に出てくる架空の街のようだ。細い小道が複雑に入り組み、わずか1メートルと少しという道幅に、人と牛とがひしめきあう。道の両脇には、1センチの隙間なく派手な露店が立ち並んでいる。泥水を含んだ、蒸し返すような熱気と、鼻をつくような生活臭があふれる。その情景はまさに雑多。ヴァラーナスは僕の五感に強烈な刺激を与える。

この街を歩いていると、豊かさとはなにかと考えさせられる。

僕らが発展途上国と呼んでいる多くの国と同様に、インドでもほとんどの商品に定価がない。気に入ったモノを見つけたら、店主に値段を聞かなくてはならない。すると店主は、まるでそれが決まり事かのように「お前の考える値段を言え」と言ってくる。そこから彼と僕との値段交渉が始まる。もちろん値段に納得がいかなければ買わないという選択肢もある。そのモノの本当の価値がどうであれ、最終的に僕らは自分で価値を決めるのだ。

一方で、日本ではモノに定価がついている。いちいち値段を尋ねる手間もなければ、ぼったくられるリスクもない。とても便利なシステムだ。しかしそれは誰かに勝手に決められた、感情のない合理的なだけの価値とも言える。さらに僕らは、単に「安いモノ」に目がいってしまうかもしれない。僕も大きく赤字で大特価と書いてあるのが目に飛び込み、たいして欲しくもないモノを買ってしまった経験がある。そういうものはすぐに捨ててしまうことが多い。

モノの価値を自分で決めるということは、そのモノの価値に責任を持つということだ。そしてその責任と引き換えに愛着を手に入れることができる。さらに不必要なモノは買わないということにも繋がる。一般的に日本は物質面でインドよりも豊かだとみなされている。しかし、ほんとうに気に入ったモノに囲まれながら、精神的に豊かに暮らせるのはインドなのかもしれない。

とはいえ売り手も必死である。もしかしたら、全ての店主が観光客である僕に法外な金額で商品を売りつけたのかもしれない。しかしそれは「騙された」のとは違う。なぜならば、僕自身がモノの価値を決め、満足しているからだ。

そんなことを考えながら入り組んだ街をどんどんと突き進んでいると、帰り道が分からなくなってしまった。生々しいまでの人間臭さを抱えるこの街は、まるで街全体が一人の人間であるかのようだ。「迷い込んだ客をみすみす逃がさない」。そんな街の意思を僕は感じた。 

【文責:杉本将太】
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2011年08月30日

【ユーラシア横断スタツア:インド・ラダック地方】民族の多様性。

ぼくは日本人だ。それ以上でも、以下でもない。日本人であるというアイデンティティを持っている。「何ジン?」と聞かれれば間違いなく「日本人」と答える。しかしそこで「何民族なの?」と聞かれると、答えに戸惑う。チベットを訪れた際、チベット民族のおばあちゃんにそう聞かれたことがあるが、ぼくは言葉に詰まった。日本に生まれ22年間生きてくる上で、「民族」を意識する必要に迫られたことがなかったからだ。

よくよく考えてみれば、日本はアイヌや琉球などの少数「民族」と人口の大多数を占める「シャモ(アイヌ語で和人)」にわかれている。しかし、もはや現在の日本においてそれらの境界線はほとんど存在していない。日本人は「日本人」というひとつの存在にまとめあげられているのだ。

これは、明治から昭和における日本国政府の政策の「おかげ」であると言えるだろう。日本国政府による帝国主義的な政策によって、少数民族はシャモに「同化」させられた。伝統的な文化は破壊され、言葉も「国語」に統一されてしまったのだ。その「おかげ」で日本人は「日本人」になり、ぼくはわざわざ自分が何民族であるのかを問う必要もなくなった、というわけだ。

*

なんでインドのラダック地方に来て、ぼくはそんなことを考えているのか。それはぼくが、インドにある民族の多様性、そしてそれぞれのアイデンティティや文化が保たれている事実に驚き、感動したからである。

*

たとえばカシミールでぼくは、「
I am Kashimir, but also we are happy with India.」というおじさんと出会った。彼は満面の笑みをたたえながら、カシミールがインドであることに対する素晴らしさをぼくに説いてくれた。そしてたとえばラダックでは、「I am Ladakhy, and also India.」という少年と出会った。「but I am not Tibetan.」と彼はつづけた。

そう、これがぼくの感じた多様性である。彼らはインド人であると同時に、それぞれの民族アイデンティティを持ち合わせている。インドに対するナショナル・アイデンティティよりも、自分の民族に対するエスニック・アイデンティティを上に捉えているのだ。彼らはそれぞれがウルドゥ語やらラダック語などの独自の言語を話し、イスラームとチベット仏教という独自の文化を保ち続けている。

ぼくがカシミールで泊まった「ハウスボート」のオーナーは、インド人の客とは「英語で話す」という。国籍の上ではインド人であるはずのオーナーが「インド人の客」と言うことからもまた、彼が「カシミール」というエスニック・アイデンティティをしっかりと持ち合わせている事実に気がつかされる。

*

だが近年、そんな状況にも少しずつ変化が訪れている。ラダック語を話せるラダック人が減っているというのだ。それは学校において、ウルドゥ語やヒンディ語の教育に重点が置かれているから。カシミールでも同様に、ウルドゥ語よりも英語やヒンディ語などでコミュニケーションをとる人が増えているようだ。

この変化は、インド政府が「インド人」というひとつの存在を作り上げようとしているがゆえに、訪れているのではないだろうか。インド政府は、少数民族を、大多数を占めるヒンディに同化しようとしていないだろうか。

具体的な証拠はないが、ぼくにはそう思えてならない。インド人が「インド人」であれば、国内においてヒト・モノ・カネを集めやすいし、小競り合いもなくなる。領土だって、確定する。コミュニケーションがヒンディ語や英語で統一されれば、国内のすべてが円滑化する。すべてが、インド政府にとって有利に働くのだ。いわば「国内のフラット化」である。

もちろん国内のフラット化は、インド政府だけではなく、それぞれの民族にとって有利に働く面もあるだろう。特に経済的な面で、それは強く現れるはずだ。しかし、伝統的な文化や言葉が破壊されていくことが取り返しのつかない大きな損失であるのは、アイヌや琉球の方々の尊い犠牲が証明している通りである。

*

ひとりの「シャモ」としてぼくは、インド人が「インド人」にまとまって欲しくないと思う。それぞれの民族が長年築き上げてきた伝統、文化、言葉。これらは一度失われたら二度とは戻らない、とても価値のある存在だ。シャモが繰り返した罪を、こんな素晴らしい多様性に溢れたインドで繰り返して欲しくない。ぼくは自責の念を感じながら、そんなことを心から願うのだ。

【文責:広報局4年 はたちこうた】
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2011年08月29日

【ユーラシア横断スタツア:インド・ラダック地方】変化の圧力

インド、ラダック地方の中心地である、レーという街に辿り着いた翌日、僕らはひとりの青年に出会った。

彼の名前はソナム。砂埃と排気ガスの舞うバザールの一角に位置する、とある小洒落たカフェの店員だった。

僕らは無線LAN環境のあるという近代的なそのカフェで休息をとっていたが、そのうちに彼と世間話をする機会があった。

ロングヘアーにサングラス、革ジャンにジーンズという、いかにも「今風」の格好をした彼は、マルボーロを吹かしながら、独特の訛りを持つ拙い英語でこう言った。

「俺は友達と3人でバンドやってるんだ。どうだ聞いてくれよこの曲。『バカラ(チベット仏教におけるラマ僧の意)』って曲なんだ。いいだろう?」

そうして彼のiPhoneから流れてきたのは、英語でラマ僧を讃えるロック・ミュージックだった。

そのうちに彼は、最近バイクを購入したことや、恋人がいることを嬉々として打ち明けてくれた。そして話題は彼の家族にのぼった。

「俺の両親は村でカシミアのファーマーをやってるんだ」



ラダックにはじめてやってきたとき、僕らはこの地がインドにあるということに驚いた。なぜなら、そこに住まう人々の人種も、言葉も、宗教も、例えばデリーの人々のそれとは大きく異なるからだ。

そこには、つい40年ほど前まで、ラダックが近代的産業社会の影響を受けることなく、独自の自足的な伝統文化を発展・継承してきたという背景がある。

彼らは、長い年月を経て、自分たちの文化や環境に即し、この地で生きるに最適な形の、いわばラダック的に完璧な生活様式を生み出した。そしてそれは、ラダックの人々に幸福で満ち足りた日々をもたらしつづけてきた。

しかしながら、1974年にインド政府がラダックの観光地化と開発を決定してから、状況は大きく変わったのだという。

それまでラダックにはなかった、西洋式産業社会の「先端的」「文明的」な様々がこの地に流入した。

僕がこれまでこのブログでお伝えしてきたような「フラット化」の圧力が、この地にもやってきたのである。

そして彼らのなかには、これは特に若者において顕著にみられる傾向なのだが、彼らの自足的な伝統文化を「後退的」で「非文明的」と捉え、西洋式産業文化の受容に積極的な姿勢を示す人々が出現してきた。

ラダックの人々の生活は、「金」で回るようになり、僕らのそれと同じようにせわしなくなった。

僕らが街を歩けば、土産物屋の人々が、必死に声をかけてくる。

”Hey my friend! Kon-nichiha! Come! Come! Beautiful Scarves! 1 minute! 1 minute!”
(兄ちゃん!コンニチハ!おいでおいで!綺麗なスカーフがあるよ!1分だけ、1分だけでいいから!)

あの青年は、まさにそんなラダックの変化を象徴しているように僕らには思われた。


僕には、西洋式産業文化とラダック式伝統文化のどちらが優れているかなんてわからない。

ラダックの変化の良し悪しだって判断できない。

良し悪しを判定することが正しいのかもわからない。

ただ、そんな僕にもわかったことはある。

それは、世界フラット化の圧力の想像を絶するまでの強大さと、そしてその圧力に、いま僕の目の前でひとつの美しい文化が押しつぶされそうとしているということだ。


(文責:国際局 高田湧太郎)
posted by S.A.L. at 18:03 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月28日

【ユーラシア横断スタツア:インド】 「感謝の話」

*

インド北部のスリナガルで過ごしたある夜、母を亡くす夢を見た。

僕は昔から、夢の中で起きたことを詳細に記憶する事が苦手だ。

そして今回も、「母さんが死んだ」という漠然とした夢の内容が、僕の右脳を揺さぶって深夜3時に目を覚ました。

捉えどころのない悲しみにかられ、友人が隣で眠るベッドで、一人涙した。

考えてみれば親が死ぬことを考えるのなんて初めてだった。
8年前、母が重い病気とわかったときでさえ、親を失うことを考えたことはなかった。

翌朝、どうしてただの夢なのに悲しかったんだろうと、想いを巡らせた。

「それはお前、マザーコンプレックスだよ」

そう言われれば否定はできないかもしれない。
ただこの悲しみは、そんな感情だけで説明できるものではない気がしてならなかった。

*

スリナガルから今滞在しているレーまではジープをチャーターして陸路で行く方法を選択した。(昨日の瀬谷のブログ参照)

その道のりはあまりに険しく、過酷だった。車に乗ってから10時間以上経った頃、何もない山奥でタイヤがパンクしたのだ。

文字通り、絶望した。陸路を選んだことを全力で後悔した。その時点でレーまでは200q以上残っていたのである。

しかし、そこを偶然通りがかったチベット人が運転する2台の車が僕らのそばで停車した。

そしてそのチベット人たちが、彼ら自身から名乗り出て、僕らを目的地まで連れて行ってくれることになったのだ。

彼らの好意に一同心から喜んだ。そして感謝した。僕はチベット人の屈託のない笑顔に心が安らぎ、「Welcome!」と言って車に迎え入れてくれる彼らの大らかさに安堵した。

目的地に無事到着したとき、たった一言だが、改めて、心から「Thank you」と礼を言った。

*

この夜、僕は改めて考えた。なぜ母が亡くなる夢を見たとき悲しかったのか。

それは、大切な存在がこの世からいなくなるという怖れだけではなくて、ある種の「後悔の念」がそうさせていることに、僕は気付いた。

なんの後悔かといえば、それは母が僕のためにしてくれたあらゆることー愛情・親心・気遣い・心遣いーその全てに対して感謝しきれていないことに対する後悔である。

気付かせてくれたのはチベット人たちだった。道すがら出会った彼らの目に余るほどの親切には、誰もが当然のようにありがたいと思う。そして自然にその気持ちを口に出して表現する。

しかし、自分にとって身近な存在の人ほど、自分のことをよく理解してくれて、自分のために動いてくれているはずなのに、その割に僕は感謝の気持ちを言葉なり、行動なりで表現できていないことに気付いた。

それどころか、僕のための気遣いや心遣いを見落とし、気付いてすらいないことだってあるんじゃないか。

仮に夢の中で死んだのが母ではなくて大切な友人であったとしても、僕は同じように悲しかったと思う。

普段からよく一緒にいて、よく喋って、よく遊ぶ人ほど、その距離の近しさから、彼ら彼女らのたくさんの優しさ・気遣い・心遣いを見落としてしまっているのではないかと思う。

僕は少し落ち込んだ。でもこれからは身近な人たちの小さな小さな目に見えない優しさにも、なるべく気付ける人でありたいなと思った。

そして決して卑屈にならず、してもらったことに対して素直に「ありがとう」と言いたい。

なんでもかんでも、されたことに礼を言えば良いというわけではないけれど、僕は人に感謝されたら嬉しくなるから、やっぱり、感謝の気持ちを言葉なり行動なりで表現したいなって思う。

*

午前10時を回っているというのに、相変わらず隣ではたちさんはすやすやと眠っています。

いま僕にとって一番身近なのはユーラシアスタツア組の4人。彼らともこの旅の途中、色々なことがあって、僕自身本当にたくさん支えられました。

改めて「ありがとう」と礼を述べるとともに、「残り26日間よろしくお願いします」という言葉でこのブログを締めくくらせていただきます(笑)

[文責:2年 川又友輔]
posted by S.A.L. at 21:18 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月27日

【ユーラシア横断スタツア:インド、ラダック地方レー】道すがら



小鳥のさえずりが朝を告げるかのように、ゲストハウスには太陽のほのかに明るい光が差し込んでいる。


インド北部ラダック地方レー。ここにはチベット民族が暮らし、独自の文化を形成しながらも近年グローバル化とともに観光地化の一途をたどる。それに伴う様々な文化の流入は、その面影を徐々に薄れつつさせる。 海抜3500mの高さに位置し、乾燥した気候と肌色の山々に囲まれたこの辺境の地に、私を含めた観光客を容易には足を踏ませない。そんな風景が私を包み込む。


だが、インドの首都デリーからダライ・ラマ14世が依拠するダラムサラ。そしてダル湖に浮かぶハウスボートが長旅の疲れを癒す、ジャンムーカシミール州シュリナガルからの陸路の歩み。そんな旅を経てきた私たちにとって、ここは言わば長旅の終わりを告げるゴールであり、この地は私たちをその豊かな自然に溶け込ませるかのように受け入れてくれている。そんな気がする。


空路では味わえない人との出会い、先の道への進路を阻むハプニング、また走り続ける中で代わる代わる変化する美しい景色がこの旅には存在した。そして私たちが経験したこの旅路は、決してバックパックでないと進むことができなかったように思う。


シュリナガルからここレーまで約20時間のジープでの拘束。13,4時間ほどで到着すると言われた当初とのズレも、陸路での移動にはつきものだ。ただその道々は舗装されておらず、ガタガタと揺れる車体が長時間続いたとなると、このルートをもう一度味わうことは遠慮したい。


車輪のわずか数十センチ横にあるのは安危を分ける一筋の境。余談も許さない緊迫感が、ドライバーの強く握りしめたハンドルから感じ取れる。そんな道中に異変は起こった。助手席に座る私の後方に、パタパタパタと不可解な音が鳴り渡る。パンクである。車内から
降りることを余儀なくされた私たちには、長旅の疲れも重なり絶望感が漂った。


目の前にあるのは砂煙を舞いあげる終わりの見えない道、道。そこに2台の車が停車した。その2台から降りてきたのは3人のチベット人。同じくレーに向かってるという。私たちのドライバーは彼らに歩み寄り、交渉を終え、私たちは車を乗り換えることになった。


金はもちろん払ったものの、どこか懐かしい助け合いの精神を感じた。チベット人たちの頬には微笑みと、それによって刻まれたであろう深いシワが浮き上がる。出会いと別れ、そしてその繋がりを示すかの様に新たな出会いは現れる。


バックパックがもたらしてくれる陸路の旅は、日々増えていくその重さを表すかのごとく、人への感謝と尊敬の念を私の胸に押しつける。車内のバックミラーに垂れ下がるダライ・ラマの写真は、高くそびえ立つ山々に消えゆく夕陽の光に照らされる。そして再び車体は揺れ始め、チベット仏教の象徴である彼の写真にくっつく鈴のチリンチリンという音が、車の揺れるガタガタという音と重なった。


【文責:広報局 瀬谷健介】
posted by S.A.L. at 20:42 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月25日

カシミール、標高1800mの楽園

カシミール地方に行く前の晩、ぼくは恐怖を感じていた。死ぬんじゃないか、もう日本には帰れないんじゃないか、そんなことをずっと考えていた。「カシミール」ということばの響きがぼくに、いまだ戦闘が絶えない紛争地帯、もしくはテロが頻発する危険地帯を連想させたからだ。砂っぽい大地にムスリムの過激派、そんなイメージがぼくの中で構築されていた。



翌朝、チベット亡命政府があるダラムサラからジープで12時間。ぼくたちは幾重にも重なる峠を越え、そしてインドでいちばん長いという2650mのトンネルを抜けて、カシミールに到達した。

ドライバーが「カシミール!」と叫んだ瞬間だった。夕陽に照らされた美しい山々と、風に波打ち銀色に輝くサフランたちが織り出す最高の景色が、ぼくたちの目の前に広がった。ぼくはほんとうに、文字通り、息を呑んだ。こんなところで戦争が起きていたなんて、にわかには信じ難い。それくらいすばらしい景色が、そこにはあったのだ。カシミールは、標高1800mの高地にある、楽園だった。ぼくは心から、そう思った。


(写真はこちら)



カシミール地方はイスラーム文化圏に属する。ここスリナガルにもモスクがいくつもあり、ラマダンの今は夜がくると大砲の音が街に響き渡る。「ドン」という音が聞こえたら、食事をはじめていいという合図なのだ。街中にはブルカを着た女性がたくさん歩いていて、なんだか異文化のど真ん中にいるんだな、と痛感させられる。

昨日、あるイスラーム教徒と出会った。彼の名前はシャビール。「ぼくは仏教徒が大好きだよ」と、シャビールは切り出した。なんで?とぼくが聞くと、彼は続けた。

「なぜなら、彼らは平和を愛しているからさ。もちろんそれは仏教徒だけではない。イスラーム教徒だって、キリスト教徒だって、みんな平和を愛しているんだ。平和が嫌いな人なんかいない。しかしアフガニスタンやイラクをみてくれ。アメリカやイギリスの政治家は戦争が好きなんだ。ほんとうは平和が好きなイスラーム教徒を、なんでやつらはあんなに殺すんだ」。

ぼくはそれに対して、何もいうことができなかった。少し考えてやっと出てきたセリフは、「I think so too, war is very bad.」という中学生の英作文みたいに陳腐なものだった。



なんで何もいうことができなかったのか。たぶん、テレビや本の中でしか知らない世界がこんなに近くに広がっていることに、ぼくは戸惑ってしまったんだと思う。いままで「現実」だと知らされてきて、自分の頭の中で「現実」として捉えていた世界。それは結局、映画のようにぼやっとした「非現実的なイメージ」に過ぎなかった。それを現実と思い込んでいたに、過ぎなかった。

だからぼくは戸惑ってしまった。「ほんとうにこういう考え方の人がいるんだ」。非現実だと思ってたイメージがほんとうに現実であることに対して、ある種のショックを受けてしまったのだ。

この経験はぼくにとって、イスラーム教徒に対するステレオタイプの強化になったのか、それともステレオタイプの破壊になったのか。どちらなのかはぼくにもわからない。

ただひとつ言えることは、「イスラーム」というものが自分の中で
「ほんとうの存在」になったということだ。それは映画の中の設定でも、本の中の主人公でもなんでもない、紛れもない「現実」なのだ。

ぼくはシャビールと写真を撮って、アドレスを交換した。「写真を送ってくれ。俺のホームページにアップロードして、日本とイスラームのつながりをみんなに知らせていこう」。彼は笑顔で言った。



カシミール地方、特に州都スリナガルの情勢はここ2-3年、落ち着いている。国境沿いの小競り合いはたまにあるものの、大規模な戦闘は起きていないという。しかしぼくのような悪いイメージを持った外国人は、ほとんどここを訪れない。

ダル湖に浮かぶスリナガル名物の「ハウスボート」という水上ホテルも、そこまで活気に溢れているとはいえない。ハウスボートのオーナーが言うには、最近になってやっとインド人観光客が戻りつつあるが、それでもまだまだ20年前の活気とは程遠いらしい。

「この素晴らしさを、日本人の友達に伝えてくれ。そうやってカシミールに観光客を、送ってほしいんだよ」。ぼくはオーナーに、そんなことをいわれた。

いつかこの素晴らしいカシミールが、大勢の観光客で溢れかえる日が来るのだろうか。もしその日が来るとしたら、シャビールはどんなことを考えて、出会った観光客たちに何を語るんだろうか。

そんなことを想像しながら、ぼくはいま、カシミールにいる。目の前には美しい山々と、ハウスボートが浮く美しい湖がある。そしてとても美味しいカシミールティーのシナモンの匂いが、ぼくの鼻をつんと突く。ここはほんとうに、標高1800mの楽園だ。

【広報局4年 はたちこうた】
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2011年08月24日

バサックスラムの変化

私は数日前、2度目となるカンボジアのバサックスラムを訪れました。私はそこで、未来への希望を感じる変化を見ました。

バサックスラムは、もともとカンボジアのプノンペンにあったスラムでした。しかし政府がプノンペンの都市計画の一部として、新しい土地を無料で渡すことによって、スラムを郊外へと移しました。新しい土地へとやってきたスラムの住民たちは、その土地に絶望することになりました。なぜならばその土地は水はけが極端に悪く市場からも離れていて、生活に必要な食料や衣服を買いに行くことすら困難な場所だったからです。彼らは元いた土地に戻りたいと主張しましたが、それが受け入れられることはありませんでした。バサックスラム内のマーケットでは栄えているプノンペンよりも食料や生活物資の価格が高く設定されています。これは、物資を運ぶためのガソリン代が上乗せされるからです。(ちなみにカンボジアでのガソリンの価格は1ℓ130円ほどでほとんど日本と変わらないため、彼らの生活を苦しめています。)

これらの状況は彼らにとってまさに負のスパイラルでした。ただでさえ貧困の最中、プノンペンから離れたことによって仕事は減り物価が上がり、よりいっそうの貧困が広がりました。



しかしそんなバサックスラムも、NPOやNGOの支援を受けながら少しずつ変わってきているようです。去年訪れた際、そこらじゅうに捨てられ異臭を放っていたゴミは、少し減ったように感じました。また、なによりも変化を実感したのが水道がひかれたことです。去年まで雨水を生活に使っていたことを考えれば、格段に衛生状態が良くなったといえるでしょう。

去年まで、日本のNPOであるMAKE THE HEAVENに支援されていたバサックスラムの子度おたちは、韓国のNPOにも支援され給食を毎日食べられているようでした。また、数人の子供たちは、スラムから少し離れた学校に車で送ってもらい、英語を学んでいます。

去年、私の目には絶望的に見えたバサックスラムも、いい方向へと変化している。そう思うと、安堵の気持ちがあふれました。

来年はあのバサックはどんな風に変わるんだろう。そんな風に思いながら、タイへと向かう飛行機に乗り込みました。

杉本将太
posted by S.A.L. at 16:40 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

確執と共生のために

「俺はね、インド人が嫌いなんだよ」

こう僕に語りかけてきたのは、タイ王国のバンコクで出会ったインド人でした。

「俺はね、むかしはデリーの旅行会社で働いていたんだ。俺の仕事といえば、問い合わせてくる旅行者にふっかけて、金を騙し取ることだたのさ」

「お前もインドに行ったことがあるならわかるだろう。デリー、アーグラー、ジャイプル、ヴァラナシ。どこにいったって、奴らは笑顔で親切そうにお前に近づいてくる。でも、奴らが実際に考えているのはお前が楽しく旅をできるかどうかなんてことじゃなくて、お前らを利用していかに金儲けができるかってことなんだよ」

「俺はそんな生活に背徳を感じたから、仕事をやめて、バンコクにでてきたんだ」


いま、人生で二度目の訪印を迎え、彼の言葉はかなりの説得力をもって受け止められました。何故なら、彼の言葉を裏付ける複数の実体験が僕にはあったからです。

たとえば、先日、スタツアで行動を共にする川又がこのブログに書いていたような、アライバルビザ取得時におけるトラブル。
傲慢な物乞いと、ボッタクリ露店商。
先日はデリー市民によるデモに遭遇しました。敵は、腐敗する政府。

もちろん、インド人の中には素晴らしい方もいます。また、例えその裏に何か理由があったとしても、しかし、事実として、インドでのネガティヴな経験は枚挙に暇がありません。そして、それらのうちのほとんどが、「自己中心性」という概念をもって理解しようとすれば合点がゆくという事実は、なかなかに重大な問題だと思います。

なぜ他者を顧みず自己の利益を追求する自己中心的態度が問題であるかといえば、それはひとつに幼児的であるからであり、さらに、そのような態度はしばしば人々のあいだに亀裂をもたらすからです。

僕がこのインド人の精神性に関する印象をあるスタツアメンバーに打ち明けたところ、こんな答えがありました。

「インド人は自分の所属するコミュニティ内部のひとには優しいんだよ。ただ、俺たち外部の人間にはそういう態度を示してくるだけで。」

国内外を問わず進展するグローバル化。ますますフラットになってゆく社会。自分の所属するコミュニティの枠を超えて、個人と個人の脱ローカル的な接触の機会がふえてゆくなかで、私たちは新たに、既存のコミュニティの外にいる人々といかにコミュニケーションをはかってゆくかという課題を抱えるようになったのではないでしょうか。

したがって、私たちは、たとえいま自分と利害を共有する人間とのコミュニケーションに成功していたとしても、もはやそれだけでは許されない状況にあると認識するべきなのではないかと思います。

これまでインド人を例にとってきましたが、もちろん、僕たち日本人を含む、この問題は世界に住まう人間すべてが同様に一考に付すべきものです。何故なら、世界に存在する国際問題のなかには、このような自己中心的な発想に由来するものが決して少なくないからです。

では、国際問題の根本的要因ともいえる、人間の自己中心性。これに立ち向かうにはどうしたらいいのか。

実は僕たちの記憶の奥底に、その処方箋が隠されているのです。


「思いやり」

小さなころに、幼稚園や小学校で口酸っぱく投げかけられるこの言葉。あまりに何度も耳にするので、すっかり陳腐化してしまった言葉ではあります。

しかしながら、この言葉には、子供のように自己の利益を追求しつづけることをやめて、大人の理性をもって他者の視点に立とうではないか、そうして共生の道を模索しようではないか、という意味がこめられています。

陳腐化してしまったという事実は逆説的に、今日の社会において、「思いやり」という言葉の価値を再考する必要性を示唆しているのではないでしょうか。



文責:高田湧太郎
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2011年08月21日

This is India.

こんにちは!
スタツアユーラシア組は現在、インドのデリーにいます。

今日の夕方にはバスでデリーを発って、最終的にはインド北部のジャンムー・カシミール州に位置するレーという街まで向かいます。

レーを含むその周辺地域をラダックというのですが、ここがまた非常に興味深いところなのです。

ラダックには長めに滞在して、現地からブログを更新していきますのでお楽しみに!



さて昨夜僕らはインドに着いたわけですが、事情により自分と友達1人はインドのビザを取得してませんでした。

現在インドではアライバルビザというものを発給していて、事前にビザを取得していなくても空港でビザを取得して入国できるシステムになっています。

そのアライバルビザを取得する際、僕たちはいきなりインドの洗礼を受けました。

アライバルビザの発給場所へ向かうと並んでいる人もほとんどいなくて、スムーズにもらえそう!と僕たちは安心していました。

ところが最初に費用の62ドルを払ったあと、一向に手続きが進みません。

何も書類を渡されないまま一時間が経ちました。職員に訪ねてみると「まあ座っとけ」と軽くあしらわれます。

僕らのあとから来た人たちが何故か僕らより早くビザを手に入れていきます。わけがわかりません。

そのうち2人だった職員が3人に増えて作業効率があがるかと思われました。

ところがビザの職員たちは楽しそうにおしゃべりを始めてしまいます。イライラが募ります。

耐えかねてもう一度尋ねてみます。「いつになったら手続きが始まるの?」

すると職員の答えはこうでした。

「これからご飯を食べなくちゃいけないからあと一時間くらい待ちなさい。」


初めてのインドで(正確にはまだ入国すらしてなかったわけだけど)、僕はいきなり先制パンチを食らわされてしまいました。



一連の出来事に僕が呆れ返っていたとき、隣にいた友達がぼそりとこう呟きました。


「This is India.」


インド滞在は残り15日。これからどんな楽しいことが起きるのか、胸のトキメキが止まりません!
posted by S.A.L. at 19:47 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月19日

カフェの一角で(ユーラシア横断スタツア)


カオサンロードには、バックパッカーをはじめとした外国人と彼らを対象とした物売りであるタイ人が集まる。

ここは、タイの首都バンコク。
その街並みは日本にも劣らない便利さと豊かさが垣間見え、まるで先進国一つであることを誇示するかのような風景がそこには広がっている。

約1週間をここで過ごしてきた私にとって、今夜がこの国最後の夜となる。
そして、毎日のように長い長い夜が私を異文化の世界へと誘い出す。

レディーボーイという存在をご存知だろうか。
それは女性の格好をし、心までも女性である「オトコ」である。
日本ではオカマと言った方がわかりやすいだろう。

まるで、本当の女性よりも身をこなし、より女性であると言わんばかりに堂々と道を歩き、
男性を誘惑する「彼女ら」は、女性よりも女性であるというアイデンティティを私に感じさせる。

昨夜、タイに留学している先輩に誘っていただき、
ナナと呼ばれる歓楽街に行った。
そこには男性を虜にさせるような魅力を持つ、
ゴーゴーバー(ストリップバー)と呼ばれる店が多く建ち並んでいる。

番号札をつけた女性、レディーボーイらは、
ポールダンスをしながら男性を魅了し、彼らからの指名を待つ。
指名された者は、男性の横に座り会話を楽しみ、気が合えば男性に買われ行き、そうでなければそのまま酒を楽しむというシステムだ。

女性だけの店も、レディーボーイだけの店も行ったが、
どちらも引けをとらないほど彼女らは女性らしさを放っていた。
ほとんど見分けがつかないほど、見た目も仕草も似ている。

タイではレディーボーイを始めとするトランスジェンダーを持つ人々は、
第三の性別として尊重されている。
それを証明するかのようにいくつかのタイの高校には
男性用、女性用、そしてレディーボーイ用のトイレが設置されているそうだ。

タイは私たち日本人にとっては、不可解な存在である彼女らを受け入れ、
セクシャルマイノリティの概念を払拭したという点で、日本より「先進国」であるように思う。

こうしてこの文章を書いているこのカフェには一体、何人のレディーボーイが甘くほろ苦いコーヒーを口に運んでいるのだろうか。
そう思いながら私は、周りにいる女たちを見回した。

【文責:広報局 瀬谷】
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2011年08月18日

刺激がなくても。

ぼくはいま、四度目のカンボジアにいる。「カンボジア」という響きから連想されることは、だいたい見たし、経験したし、知った気がする。奢りかも知れないけれど、ぼくはそう思ってる。

*

四度目だと、道もある程度覚えるし、言葉も少しは話せるようになる。スラム街の子供たちと顔見知りになったり、市場やトゥクトゥクでの値切りもかなり上達した。

正直慣れてしまったんだと思う。街に鳴り響くクラクションにも、オールド・マーケットの生活臭にも、トゥクトゥクで味わう向かい風にも、刺激を感じなくなってしまった。でもぼくは、それを悪いことだとは思わない。なぜなら、ぼくは「刺激を得るために」カンボジアに来ているわけではないからだ。

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ぼくは「カンボジア」と仲良くなりたいと思って、カンボジアに来ている。

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大学生の国際協力といえばカンボジア。カンボジアに来れば、発展途上国を見ることができる。スラム街、ゴミ山、騒がしく汚い街がある。刺激が、たくさんある。カンボジアには、そんなイメージが潜在的に埋め込まれてしまっている気がする。ぼくはそれが、嫌だ。

なぜなら、カンボジアはアトラクションではないからだ。そこに暮らし、日々を生きていく人たちは、ぼくたちに刺激をもたらすために生きているわけではない。自分たちのために、生きている。
知りたい、見たいというのはいいけれども、それを目的にカンボジアに行くのって、なんだか上から目線なんじゃないか。ぼくはそういうジレンマを感じるのだ。だからぼくは決めた。カンボジアと、仲良くなりたいと。

友達とおなじだ。刺激を求めるために、ぼくらは新しい友達と会っているわけではない。どんどん話して遊んで飲んで、お互いを理解して、刺激とかそういうのじゃなく、阿吽の呼吸が生まれるくらいになりたいから、ぼくたちは友達と会う。四度目だから刺激がないなんて友達に言ったら、嫌われるに決まってる。会えば会うほど、相手のいいところと悪いところを知って、仲良くなることこそが、友達を作る醍醐味なのだ。

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ぼくはカンボジアに四回来て、いいところと悪いところを知った。刺激はないけれど、まだまだ気がつくこともたくさんある。まだまだ知らないところもある、知りたいところもある。奢っている自分もいる。それゆえ、まだまだカンボジアを知りたいし、まだまだカンボジアを経験したい。

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ぼくはこれからも何回も、カンボジアに来るだろう。
カンボジアと、仲良くなるために。

【広報局 はたちこうた】
posted by S.A.L. at 01:22 | Comment(2) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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