2011年09月24日

またカンボジア行くの?

こんばんは。SAL2年の前田です。

昨日、日本に帰ってきました。カンボジアスタツアも無事終了です。
特に目立ったトラブルも無く、とても内容の濃い1週間を過ごすことが出来ました。企画者に感謝です。本当に。

僕にとって今回は3回目のカンボジアでした。ヨルダンやイスラエルなど、他のメンバーが次々に新しい国へと旅立って行く。
そんな中、僕は懲りずにまた同じ場所を選んだわけです。


「またカンボジア行くの?」


こんな質問を何人もの友人からされました。きっと「そんな何回も同じ国に行ってもつまんないよ」といった意味を込めていた人が多いと思います。

虐殺場やアンコールワット、そしてスラム。確かにカンボジアで有名とされている場所には、一通り行ったことがあります。
その分「知らなかったことを知る機会」も少なくなってきました。

それでも、何回も同じ場所に行く意味はあるんじゃないかと僕は思っています。

回数を重ねるごとに、カンボジアについて知っていることはどんどん増えていきます。だけどそれに比例して分からない点も増えていくように感じています。本を読めば読むほど、読んでいない本の数を多く感じるのと似た感覚です。

僕がそういった分からない点に気づくのは、スタツアを終えて家のリビングでくつろいでいるような時ばかりです。
現地では、用意していた疑問点、聞きたいことを消費するのに精一杯になってしまうからだと思います。

そうすると次回のスタツアでは、前回分からなかったことを用意していた疑問点として消費しようとし、そこからまた新しい疑問点が浮かんでくる。このサイクルが僕の中で回り続け、次もカンボジアに行こうという原動力になっています。



3回この行程を経験していく中で、疑問点だけではなく「ゆずれない思い」も生まれてきました。これだけは間違っていない、これがカンボジアに必要なことだ。誰に否定されようが、こうやって胸を張って言えるような思いです。

抱えていた疑問点を解消し、新たな疑問点を発見する。
この作業に加えて、今度は「ゆずれない思い」を形にしていく段階なんだと思います。





今もしも
「またカンボジア行くの?」
と聞かれたら、僕は迷わず「ハイ」と答えます。

もうすこしの間だけ、カンボジアという国と真正面から向き合ってみたいからです。
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2011年09月23日

散歩


エルサレム最後の夕方、新市街をしばらく散歩してみました。
歴史ある古い建物の中に新しいお店が立ち並び、美しくてとてもいい街です。
今日はシャバット(安息日)ですので、街には家族連れや恋人同士との団欒を楽しんでいる人々が町にあふれています。

公園に入ってみると正統派イスラエル人の家族が目に入りました。
小さな男の子と女の子が遊んでいるのを、両親が微笑みながら見ています。
「幸せそうだなあ」と思いしばらく眺めたあと、ほっこりした気分になり宿へと戻りました。

はるか遠い昔、国を失ってしまったユダヤ人はナチスのホロコースト以外にも何千年もの間様々な場所、様々な時代で差別を受けてきました。
差別や殺されることを恐れることがなしに
家族と団欒すること、恋人とデートすること、友達同士で遊ぶこと。この貴重さを彼らは知っています。

私は散歩をしながら、彼らが何千年も求めていたものは「ユダヤ人国家」ではなく、私が散歩をしながら見てきた差別や恐怖から解放された幸せな休日や何気ない日々ではないかな、と感じました。

彼らは今、何千年も求めていたであろうものを手に入れています。
「良かったね」と公園で見た家族や街に行き交う人々に向かってつぶやいてみました。





一方、彼らの幸せな休日の向こう側に「分離壁」という名の檻に閉じ込められている人々がいます。

その人々は壁の向こう側に行くことができません。
当然、ここエルサレムにも。



壁の向こう側の幼い子供が母親に尋ねます。

「あの壁の向こう側には何があるの?」
「どうしてあの向こうに行っちゃいけないの?」

母親はただ悲しそうに首を振っています。

彼らは土地を追われ、壁の内側に押し込まれ、そこで生きていきます。
突然家を壊され、家族を殺され
たどり着いたこの場所で

高い壁に囲まれ、学校や職場への道を封鎖され、
どうしようもない「怒り」「絶望」「嘆き」を抱えながらも
次の世代に望みを託し、なんとか生きています。



ユダヤ人は彼らをテロリストと呼びます。


でも、彼らが求めているものはあなた方と同じです。
差別や恐怖なしに家族と団欒したり、恋人とデートしたり、友達と遊んだり。
そういった何気ない日々や幸せな休日なのです。

何年後か何十年後かに、この街のあの公園にパレスチナ人の家族とユダヤ人の家族どちらもが楽しそうに遊んでいるのをしばらく眺めながら、また「良かったね」と心から呟く日が来ることを心より願います。

イスラエルスタディーツアー 渉外局 白川紘樹

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【ユーラシア横断スタツア】あなたは象を見たことがあるか

象を知らない盲目の人が象と出会ったとき、彼は象をどう捉えるだろうか。

まず彼は象に触れて、象というものを知ろうとするだろう。

どこに触れるのだろう。鼻だろうか。耳だろうか。足だろうか。胴だろうか。

もし彼が牙に触れるのなら、彼はきっと象という動物をこう定義するはずだ。

「ああ、象というのはつるつるすべすべしていて、細長い動物なんだ」


このような無邪気な誤解は、僕らにも一般に起こりうる。例えばあなたは、イスラームと聞いて何を思い浮かべるだろうか。

平均的な日本人だったらこう答えるはずだ。

テロリスト、と。

僕らが日本に住んでいる限り、地理的にも文化的にも遠く離れたイスラームの人々と直接に接触する機会はほとんどない。
だから、僕らが持ちあわせるイスラームの情報というものは、伝聞に依存せざるをえなくなってしまう。
それはたとえば教科書だったり、報道だったりする。

日本のテレビに彼らが登場するシーンはとても限定されている。彼らが僕らの前に現れるのは、世界のどこかで爆発騒ぎがあったときに、「イスラム系過激派武装勢力による犯行」などという仰々しいフレーズとともに、と決まっている。

だから、僕らはイスラームという文化に恐怖を抱くようになる。ムスリムとの接触を忌避するようになる。彼らの国を訪ねれば、いつか報道でみた邦人誘拐の被害に自分もあうのではないかという危惧。はたまた、テロに巻き込まれるのではないかという恐怖。

これが、僕ら日本人の抱く一般的なイスラーム像なのだと思う。


しかし、実際に彼らの国を訪ねてみると、この認識は事実といささか乖離していることがわかる。

あるヨルダンのムスリムが僕にこういった。

「確かに僕らはアメリカ政府がキライだ。日本政府にもキライなところがある。でも、だからといってアメリカ国民や日本国民までもがキライなわけじゃない。お互い人間なんだ。」

「だから、僕はテロがキライだ。僕らはなにも罪なき市民の死を望んでなんかいないんだ。」

ヨルダンはイスラム国家のなかでももっとも宗教的に穏健な国のひとつで、首都アンマンにはまるでテロとは無縁、いたって平和な日常が流れていた。

僕は、穏健なヨルダンという土地柄も手伝ってだろうが、このような声をなんども耳にした。

そもそも、実際に武力行使をする人々は、ムスリムのなかでも過激と呼ばれる極少数派なのだ、という事実を忘れてはならない。

加えて、どんな武力行使にも背景がある。

僕らがテロと呼ぶその営為の背景には、命を懸けるに値するほどの憤怒が横たわっていることを、僕はパレスチナ人やクルド人の言葉の端々から感じた。



ところで、教科書には「ムスリムは酒を飲まない」とあったけれど、世俗化したトルコの街には酔っぱらいのムスリムが千鳥足で歩いている。

それどころか、教科書やニュースで観るような、赤いスカーフに白装束といった民族衣装を着た人々は、少なくともイスタンブールにはほとんどいない。彼らは僕らと同じような洋服を着て町を歩いている。

彼らは使用する文字までもアルファベットだ。トルコ語は、アラビア語をアルファベットに置き換えるかたちで20世紀初頭に生み出された、世俗化の象徴たる言語なのだ。

僕はびっくりして、思わず彼らに問いかけてしまった。

「え、あなたは本当にムスリムなの?」

彼らは堂々と答える。

「ああ、もちろんムスリムさ。」


こんなイスラームも、世界にはあるのだ。



確かに、教科書も報道も事実を述べてはいるだろう。イスラム教の聖典であるクルアーンの教えによると、確かにムスリムは飲酒を禁止されている。世界各地で、イスラム系武装勢力による武力行使が多発しているのも事実だ。

しかし、これは僕らにとって、象牙の写真を見せられて「これが象です」と言われているようなものである。確かに、象牙は象の一部分であるから、象を語るのに象牙の記述は必要不可欠だろう。だがしかし、これをもって全てとするような解釈は多分に表層的かつ一面的でしかない。実際に象を目の当たりにしてみれば、これがいかに偏狭な理解であったかを痛感することになる。

不幸にして僕らは象牙の写真を見てこれが象なのだと盲目的に信じてしまう。何故なら、世界にはこれが象そのものだと言わんばかりに象牙の写真が溢れているし、なにより、僕らは本物の象を見たことがないから。

イスラームに限らず、もし真剣に世界と向きあおうと思うのならば、僕らはこれ以上、象牙の写真を見つめつづけるわけにはいかないだろう。
そればかりを見ていては、文化的誤解が更に深まってゆくばかりだ。
そしてその誤解は、これまで世界に幾度もの衝突をもたらしてきた。
世界は相互不信に陥って、お互いにお互いを傷つけあってきた。
僕らが象牙の写真を信じ続ける限り、これからもこの不幸は続くだろう。

だから、僕らには象の姿というものを真に知る必要があると思うのだ。
まだまだ理解は足りないだろうけれど、でも、僕が今まで見てきたものは象牙にすぎなかったという認識をもたらしてくれた点で、僕は今回のスタディーツアーに大きな意義を感じた。


そしてこれからも僕らは世界中の象を見るためにこれからも外へ繰り出してゆく。

世界をよりリアルに理解するために。

国際問題啓発団体S.A.L.として、僕らが目の当たりにした象の鼻の長さや体つきの逞しさを、この象牙の写真に溢れる世界に発信してゆくために。



文責:国際局 高田湧太郎
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2011年09月22日

UFPFFグランプリ受賞

こんにちは。
代表の武井裕亮です。


あまりこのブログには顔を出さないのですが、今日は一つ報告をさせてください。


僕たちは1年半前に、"s.a.l.films"という子団体を立ち上げて、カンボジアの地雷原を舞台にしたドキュメンタリー映画の製作を進めてきました。



そのs.a.l.filmsの一つの試みとして、「UFPFF国際平和映像祭」に5分の短編映画を出品していました。


その作品が21日のグランプリ審査会にて、

「グランプリ 世界一周チケット(H.I.S.様より)」
「地球の歩き方賞 ユーレイルグローバルパス(ダイヤモンド・ビッグ社より)」

の二つの賞を頂くことができました。

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これまで多くの方々から頂いたご支援、ご協力のおかげです。
この場を借りて、お礼申し上げます。

本当に有り難うございます。




思えばこのプロジェクトは、「絶対に無理」そう言われて始まりました。

カメラはどうする・・・?
撮影はどうする・・?
通訳は・・?
脚本は・・?
編集は・・?

そもそも「映画」などつくれるはずがない。
しかし、”伝えたいこと”だけは確かにありました。



そんなところから、本当に1から試行錯誤を重ね、仲間と共に歩んできました。
一つずつ、仲間との絆を確かめながら進んできました。

そんな決して奇麗とは呼べない僕らのプロセスを、こんなにも華やかに評価して頂けたことは
メンバー一同にとって、言葉にできないほどの誇りです。

本当に嬉しく思っています。



また、この賞以上に僕が個人的に嬉しく感じていることがあります。


それは、僕らの映画で伝えたかったことが、直に「伝わった」と感じられたことです。
当日会場で、多くの方々がお声をかけてくれました。

そのご感想の一つ一つが、本当に内容を理解して頂けたんだな、と感じさせてくれるものばかりでした。

そのことが、本当に心から嬉しかったです。
これまでの苦労が、報わる思いでした。



これからも、「CROSSROAD」は上映会を重ねて行く予定です。
もっと多くの方々と、直にお話をさせて頂きたいと考えています。


10月7日には、初の上映会を迎えます。
多くの方々とお会いできることを楽しみにしています。

それでは。

公式サイトも是非ご覧下さい。
http://crossroad-salfilms.com/



『CROSSROAD上映会』
基調講演
・フォトジャーナリスト 安田菜津紀 様
・JMAS理事長 野中光男 様 
・日本アセアンセンター 


日時:10月7日(金)18:30〜
場所:成城ホール(成城学園前駅から徒歩5分)
料金:800円
主催:慶應義塾大学公認団体S.AL.
後援:カンボジア王国大使館、日本アセアンセンター
協力:JMAS









posted by S.A.L. at 21:37 | Comment(0) | CROSS ROAD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鰯網で鯨捕る


皆さんは「鰯網で鯨捕る」ということわざを知っているだろうか?

鰯を捕ろうと張っていた網で、思いがけず鯨が捕れてしまうこと。

つまり意味としては、思いがけない収穫や幸運を得ること。


今回、私はカンボジアスタツアに参加したのだが、正直なところ鰯程度の獲物しか期待していなかった。

しかし結果的には鯨程も大きな獲物を捕まえることができた、とても実りのあるスタツアとなった。

以下その経緯を述べたいと思う。




私にはある悩みがあった。

それは、「将来的に国際問題と関わっていきたいが、どのように関わっていけばいいのかわからない」というもの。

普通に何かしらの企業に就職して、そこでなんとなく働いて・・・

という人生を歩みたくはない。

必ず何らかの形で国際問題と関わっていきたい。

しかしどのような形で関わればいいのかわからない。

SALで活動しながら、こんな悩みをずっと抱えて“いた”。


なぜ過去形なのかというと、今回のカンボジアスタツアで、ある発見があったからだ。

それは最終日に聞いた、NPO法人かものはしの共同代表 元木さんのお話でのこと。

団体の活動や理念など様々なお話をしていただいたが、私にある発見をもたらしたのは、人材コンサルタントの方がプロボノとして来てくれて、そのときにしてもらったアドバイスが大変役に立ったというお話。

先ほど述べたような悩みを抱えていた私は、このお話を聞いた瞬間に「これだ」と感じた。

私は、現地のNGOなどに就職して支援活動をするといったことにはいまいちピンときていなかった。

なぜだかわからないが、そこには自分だからできること、自分の価値を感じられること、そういったものが欠けている気がしてしまうのだ。

しかしプロボノとしてなら、企業に就職したとしても国際問題に関わることができ、しかもその仕事を活かすことができる。

さらに自分の仕事を活かせる分、自分への付加価値は高まる。

国際問題へのこのような関わり方を知ることができたのは私にとって大変大きな発見であった。



冒頭にも述べたように、正直に言って、今回のカンボジアスタツアにあまり期待していなかった。

アンコールワット見たいし、まだカンボジアには行ったことがないから・・・

程度の気持ちでしかいなかった。

しかし、悩みを抱えていた自分に進むべき道を指し示してくれる程大きな発見があった。


今回のスタツアは、まさに「鰯網で鯨捕る」ということわざ通りのものとなった。


渉外局2年 福田光
posted by S.A.L. at 12:36 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月21日

【2011夏 ヨルダンスタツア】命に国境はない

「命に国境はない」

スタディーツアーでお世話になった高遠菜穂子さんが、絵はがきに書いてくださった言葉だ。




今回のヨルダンスタディーツアーを通して、私は多くの難民の人々に出会った。
みんな私達を最高の笑顔と抱擁でむかえ、明るく優しかった。しかし今までのブログにもあったように、彼らは親や友人が殺されたり銃を突きつけられたりと、想像を遙かに超える辛い経験をしていた。

ヨルダンにいる難民のほとんどが熾烈な過去を抱えているが、ニュースになることはない。日本でもし同じようなことが起こったとなれば、大ニュースになる。

失われてもいい命と、失われてはいけない命とは何か。




日本にいる間、 私は戦争がなくなって平和になって欲しいと思う半面、どこかで「しょうがない」と自分に言い聞かせていた。 世界には私が知らない事情がたくさんある。いわゆる「大人の事情」。 だから仕方ないのだと。
しかし、ヨルダンで出会った人々を前にして、私は「しょうがない」と思うことはできなかった。彼らをすごく身近に「人」として感じたからだ。世界には今も紛争や貧困に苦しむ多くの国がある。そこには確かに人がいて、その一人一人には人生が存在する。私と同じように親がいて、友達がいる。日本でニュースを見たり学校で勉強をしたりしている間に、私はそんな大切なことを忘れていた。日本で情報を得るばかりで頭でっかちになってしまっていた自分を、恥ずかしく思った。


世界の人々にはそれぞれ国籍があり、人種があり、宗教がある。しかし、命の重さに国籍も人種も宗教もない。みんな同じ人間であり、同じ命である。命に国境はないのだ。それなのになぜ、国や宗教が違うからといって、人によって人の命が奪われてもいいのか。私はこのスタディーツアーの間、もどかしくて虚しくてどうしようもない気持ちに何度も襲われた。


「理想論だ」と言われるかもしれない。「しょうがないだろ」と言われるかもしれない。
しかし、私達と同じように生活しているだけの人の命が、人を思うことのできる人の命が、失われてもいい命だと言うのなら、失われてはいけない命がどんな命なのか、私には分からない。


「しょうがない」で終わらせるのではなく、「理想」を実現させようと努力しつづけることで、いつかそれが「当たり前なこと」に変わるのだと私は信じたい。


ヨルダンスタディーツアーを終えて、いま心から思う。
世界に平和がおとずれますようにと。


【イベント局2年 鈴木友佳子】

2011年09月20日

ジレンマ

カンボジアについてから早1週間がたった。街の汚さにも慣れ、ミネラルウォーターで歯を磨き缶ジュースにストローをさして飲む生活にも違和感がなくなった。
自分は恥ずかしながらこのスタツアが初めての海外経験で見るものすべてが新鮮に映った。アンコールワットの朝焼けは言葉に表せないほどに綺麗で、現地の子供たちとのサッカーではなけなしの運動神経をフル活動させ夢中になって遊んだ。

今日はシェムリアップを出発し、かものはしプロジェクトのコミュニティーファクトリーを訪問してきた。かものはしプロジェクトというのは人身売買を撲滅するために最も貧困な地域に絞った支援をしているNGO団体であり、コミュニティファクトリーではたくさんの若いカンボジア人の方々が働いている。

カンボジアで人身売買というのはとても深刻な問題であり、貧困層の子供や女性たちがその被害にあっている。騙されて売春宿に連れていかれ心と体に大きな傷を残している。
そうした現状を変えるため立ち上がったのがこの団体である。

そこで耳にしたのはいかにカンボジアの方々に仕事を提供するのが難しいのかということだ。現地の人に話を聞いて感じたことだが日本人とカンボジア人の間には大きな国民性の違いが存在する。カンボジアには「その日暮らしの生活ができればいい」「故郷で暮らすことが大切」といったような我々とあまり馴染みがないような価値観があるようだ。そのため都会に出てがつがつ働くといったような考えを持っている人は少なく、貧困から抜け出せない原因の一つとも考えられる。

しかしだからと言ってその価値観が間違っていると決めつけることはできない。そもそもみないろいろな価値観を持っているのであって、その一つ一つを尊重するべきである。そこで思ったのが途上国を先進国が支援する際に先進国の価値観を押し付けてしまっているのではないかということである。

もちろん人身売買のような非人道的なことはなくすべきであるし、途上国ではまだまだ先進国からの支援が必要であることもこの目で確かめてきた。だが自分たちのやり方を無理やり押し付けるのではなく現地の価値観を大切にしながら行うというところに支援の難しさを感じた。


途上国の方々の方々には豊かになってもらいたい。

だがその土地らしさを失ってほしくはない。



そうしたジレンマを感じているうちにバスは目的地のプノンペンへと到着した。

国際局1年 片山雄太
posted by S.A.L. at 04:58 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平和の形〜CROSSROAD〜

今あなたの隣にいる人は、過去にあなたの大切な人を殺しているかもしれません


そう聞いたあなたは、その隣の人と笑いあえますか?
いや、私にはなかなか難しい。もしその人が殺したと確信が持てればその人を殺したくなる。殺すまではいかないとしても、その人にはもう笑顔は見せられなくなるでしょう。


憎しみの連鎖

人間が感情を持っている限り、この負の連鎖が途切れることはない。
そう思っていました。そう確信していました。



カンボジア北西部の村、タサエン。ほとんどの家庭に電気、ガス、水道が通っておらず決して発展しているとは言えませんが、のどかで居心地の良い村です。


この村で私の考えは打ち砕かれました。


元ポルポト軍兵士と、敵対していた政府軍兵士。両者が共生している村。
言い換えれば、かつて殺し合いをした者同士が生活している村。
のどかに見えるこの村は、凄惨な過去を抱えている村でした。


しかし、私の考えを打ち砕いたのはこの状況ではありません。

村人達の笑顔でした。


一緒に暮らしているだけでも信じがたいのに、その村の住民達に笑顔は絶えません。
村人のお話を聞いても、
「殺しあったのは昔の話。今は一つのカンボジア国民として仲良くやっている。」
と言います。


衝撃でした。

一度憎しみが生まれれば、その憎しみを抱いている人間が死ぬまでその憎しみは消えない。その憎しみが子孫に受け継がれている例も世界には多く見られます。


しかし、そんな考え、事実を吹き飛ばすかのような平和。
歩み寄ることで得られた平和。
凄惨な過去を乗り越えた「平和」の形がこのタサエンにはありました。


そんな村、タサエンを舞台にしたドキュメンタリー「CROSSROAD」がいよいよ10/7(金)に公開となります!
詳細につきましては、HPに載せておりますのでお手数ですがこちらからお願い致します。
http://crossroad-salfilms.com/



【文責:sal films 助監督 青山明弘】
posted by S.A.L. at 04:23 | Comment(0) | CROSS ROAD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月19日

深く思いやること

旅に出ると時々わからなくなる
それぞれの国の習慣やタブー
何が許されて何が許されないのか

このヨルダンスタディーツアー中、私は何度それを思ったことだろうか

私はあるイラク難民の女性の家に招かれた
フダというその子は私と同じ19才、少しシャイだがとても大人っぽくてとてもキレイな人だ

フダと一緒にRainbow St.というマーケットをぶらついた後、私達はフダの家に招かれた
夜11時になろうともいう時間、
日本人的感覚からすればこんな夜遅くに十人という大人数で家にあがるのはとても迷惑なこと
私達は玄関先でさよならを言おうと決めていた

しかし家に着くとフダの母が現れ、兄、妹まで出てきて熱心にあがっていけという
私達は断りきれずに靴をぬいでリビングへ入ってしまった

とても裕福とは言えないフダの家庭、それでもフダの母は2つのコップに水をいれ、それをまわして飲むようにいった
結局10分程談笑した後、私達はそろそろ戻らないといけないと言い、無理やり家を後にした


フダの家からホテルまでの帰り道、私は考えた

私達はこんなに早くフダの家を出てきてしまって良かったのだろうか
私達は他人の家に長居することは失礼だという日本的感覚を自己満足としてフダに押し付けたことにはならないか
神妙な顔で私達が日本語でいつ帰るべきか相談している様子を見てフダは何を感じただろうか


他にも行く先々で勧められるアラビアコーヒーを口に合わないと断ってしまうこと、せっかくアラブ人と楽しく話していても水タバコを吸おうと誘われると私は結構と席を立つこと、ムスリム女性に好きな人はいるかと聞いてしまうこと

私達はこのスタツア中にどれだけの人を傷つけてしまっただろう

そう考えていることこそ日本的感覚、私達は彼らにとって外国人なのだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだ

しかしこのスタツア中に見てきたイラク難民やパレスチナ難民が抱えている多くの問題を解決していくにはこうした重すぎる程の気配りも必要だと私は思った

互いに違う立場の者同士、違う経験をした者同士にはそれぞれ自分達のルールや習慣がある

どんなにがんばっても完全に相手を理解することはできない、なぜなら既に自分達のルールがあるし、何より他人の立場や経験を実際に体験することができないのだから


だから
体でできない分を心で補う


このスタツアを通じて私はどれだけ深く思いやることができただろう

何が許されて何が許されないのかその答えは自分がどれほど相手の心に深く寄り添えたかにあるのだと思う


広報局1年   花上愛祐美



忘れられない思い出




あなたにとって、忘れられない思い出は何ですか?




ヨルダンスタディーツアーも、早いもので最終日となりました。
私は今、この2週間の出来事を思い出しながらブログを書いています。


私たちは昨日、イラクの支援活動を行っている高遠さんにイラク戦争のお話を聞く機会がありました。その中でも私がもっとも印象的だったお話を書きたいと思います。




あるイラク人の家族が、国内情勢が悪化したために隣国のヨルダンへ亡命をしようとしました。その家族は父、母、当時15才と10才の男の子、5才の女の子の5人家族です。


ヨルダンに亡命することはできましたが、途中米兵に引き留められ、5才の女の子を含む全員が胸に銃口を突きつけられ尋問されました。



3年後、一番下の女の子が8才になったとき、彼女はこんな絵を描きました。


“ベッドの上で銃をかかえ、血を流しているお姫様。窓から微笑を浮かべ、お姫様を見つめる人物。”

女の子に、絵の意味を聞くと
「お姫様は私。銃で殺されたの。窓から私を見ているアメリーキー(アメリカ人)に。」
と答えました。




銃を胸に突きつけられたとき、5才の彼女はどれほど恐ろしい思いをしたのでしょうか。

表面的には見えにくい彼女の心の傷は、想像をはるかにこえて深いもので、きっと一生消えることがないでしょう。


彼女のケースが珍しいことではなく、誘拐されたり暴力を受けたイラク難民の方々が数えきれないほどいるのです。


そして、それら体験は、それぞれ数えきれないほどの悲しみや心の傷を残します。



世界中の人たちの忘れられない思い出が、幸せな思い出ばかりの世の中が訪れますように。


(広報局1年矢口絵理)

ポル・ポトの正義 子どもたち


 カンボジアに来て6日目、やっとうだるような暑さにも慣れて、私たちは日々の活動を行っています。今日は、アンコール・ワットやその他遺跡群の観光に行きました。そこで見た光景は―ありきたりな表現ですが―言葉にできないほどすばらしいものでした。アンコール・ワット全体を照らす朝焼けの壮大さに圧倒され、壁の隅から隅まで精密に施されているレリーフからは、当時の人々の息遣いが伝わり、とても感動しました。しかし、壁にあった弾丸の痕を眼にしたとき、この地でつい最近まで激しい内戦があったことがふと思い出され、とても悲しい気持ちになりました。トゥールスレン博物館や、キリングフィールドで見たおぞましい光景が鮮明に思い出され、胸が苦しくなりました。(これらの場所はポル・ポト政権が行った虐殺の歴史を展示し、ポル・ポトが行った数々の残酷な行為を後世に伝えているものです。) 私はもちろんポル・ポトの行った行為は決して許されるものではないと思います。しかし、それと共に私にはひとつだけ思うことがあります。それは、


「ポル・ポトは、自分の理想とする社会を実現するため、つまり自らの正義のためにこのようなことを行ったのではないだろうか。」


ということです。ポル・ポトは初めからカンボジアを破壊しようとしていたわけでは、決してないのです。むしろ、カンボジアを守るために―ベトナムその他の国から自国を守り、理想とする原理共産主義を断行するために政権を握ったのです。ただ、その思想自体に大きな欠陥があり、また、その為に使われた手段があまりにも強引で、幼稚でした。その為にカンボジアの伝統的な社会システムは破壊され、多くの人々が命を落としたのです。この事実から、私が言いたいことは、


「人は簡単に間違った正義を選ぶ。」


ということです。しかも、それは間違いだと分かるのは往々にして結果が出てしまった後なのです。現在、虐殺を伴った正義が誤りであることは、歴史が証明しています。しかし、将来起こる課題について、人はこれからも多くの間違った正義を選択していくのだろうと思います。私たちにできることは、そこから学び、二度と同じ誤りが起きないように努力していくことだけです。


 話は変わりますが、私は今回のスタディーツアーで、孤児院を訪問しました。そこで出会った子供たちは、笑顔が素敵で人懐っこく、とても孤児であるようには見えませんでした。私は全くかわいそうだとは思いませんでした。ただ、「子供たちの生活をもっとよくしてあげたい。もっと子供たちを楽しませてあげたい。」と純粋に思いました。どうすればいいか、と思ったときにある二つの体験を思い出しました。一つは、前日に教育支援を行っているNGO団体で伺った話で、「カンボジアでは先生の質が低く、また設備も十分に整っていないため、実験などの体験学習があまり行われていない。」というものでした。もう一つは、小学生のときの科学実験教室で、ペットボトルロケットや万華鏡の作成に夢中になって取り組んでいたときのことでした。その二つの体験から、私は科学実験教室をカンボジアで開こう!と思いました。そうすれば、普段はやっていない体験学習もできるし、何より子供たちが楽しめると思います。私は後期からこれをプロジェクトとして始動させようと決意しました。


長くなりましたが、最後まで読んでくださって、ありがとうございました!


【国際局二年  高井啓輔】
posted by S.A.L. at 05:03 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月18日

カンボジアスタツア5日目

 今日でカンボジアに来て5日目です。

 これまで私たちはたくさんのカンボジア人に出会いましたが、共通して私が思うのは生きる活力にあふれているということです。
毎日を生きるのに必死で、例えその生活費を稼ぐ方法が生産性や効率が悪かったとしても、私はよっぽど日本人より人間らしさがあると思います。


 約30年前、この国の文化、知識、秩序など様々なものが破壊されました。
現在街角に出てみると、0の状態だったことが信じられないほど復興しています。
道などまだまだ十分に舗装されておらず、中心部から少し離れるとすぐ田舎になってしまいますが、日本人が抱いているカンボジアのイメージよりはだいぶ豊かなように感じます。
決して清潔とは言えないけれど、その町並みの中には人間味があります。


 また、特にそれを感じたのは、孤児院の子供たちです。
彼らの中には幼いにも関わらず日本では考え難いどん底を生きてきた子もいます。
でも、何故かかわいそうという同情心を抱かせないのです。人懐っこく抱きついては愛くるしい笑顔を見せてくれます。
むしろ他のカンボジアの子供たちより幸せそうに見えるくらいです。
子供たちに将来の夢を聞いてみると、そもそも職業をあまり知らないため、種類は限られているものの、それぞれ夢があるようです。
実際、飲み込みが異常に早かったり、ダンスや歌が抜きん出て上手いなど、才能がある子がたくさんいます。
きっとあの子供たちなら自分の興味のある方向の職業を手にすることができるでしょう。
あの子供たちが生きがいのある仕事ができる、そんなカンボジアの未来を願うばかりです。

このようにどん底の状態でも生きようとする人々の力が、これからのカンボジアをひっぱっていくのだと思います


 しかしながら、この国に来て、自分の中で矛盾を感じることがあります。
シェムリアップやプノンペン、特に観光地では決まって物乞いや、必死に物を売る子供たちがいます。
孤児院の子供たちの幸せを願う一方で、他のそのような子供たちには何か物を買うことすらしません。
救う人を選ぶわけではないけれど、貧しい人々全員に手を差し伸べることができない状況、この私の中での矛盾が、今の世界の現実なのだと思います。
皆誰かしらの幸せを犠牲に豊かさを得ている、そんなことまで考えてしまいます。
 

 たった数日ですが、様々なことを考えさせてくれる、このカンボジアにいるのもあと少しですが、一日一日を大切に何かを確実に学んで帰りたいと思います。


                             
2年 岡田朋子
posted by S.A.L. at 17:19 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

I AM IN カンボジアです

こんばんはー!!
日本より2時間遅いカンボジアからお送りしています竹渕慶でーす^^!

SALに入って初のスタツア、念願のカンボジア。
飛行機がプノンペンに到着したと同時に私は夢をひとつ叶えました!
地元発、成田行きのバスが出発する直前にパスポートを忘れたことに気づき
そんなこんなで搭乗手続き締め切りの15分前に空港に着いてみんなをヒヤヒヤさせた私ですが(本当にすみませんでした☆)、
スリリングで素敵な幕開けだったと思います!時間に余裕を持つことに越したことはないですね!
いやーほんとによかった!

カンボジアですが、今のところ私は日々刺激的で目をキラキラさせる毎日を送っています。
私は今日、4日目のブログ担当ということですが、
今日のことは書きません。
(ちなみに今日はトゥールスレンとキリングフィールドに行ってきました。
もちろんポルポトの大虐殺については知っていたとはいえやはり実際に肌で体感するとその衝撃と言い知れない悲しみというか苦しさは本当に大きかったし、思ったことはたくさんあります)

3日目の昨日、プノンペン市内にあるCUCHMAという、Make the Heavenさんの支援している孤児院に行ってきました。
「世界がもし100人の村だったら」という本、そしてテレビで放送されているドキュメンタリー番組を知っていますか?
大学での私の夢が「カンボジアに行くこと」だったという理由は、高校生の頃にこの番組を見たことにあります。
この番組は年に2回放送される、様々な途上国における貧困層の生活を追ったドキュメンタリー番組なのですが、
一番最初に見たのがカンボジアのスラム街で生活する子供たちを特集したものでした。
途上国のスラムなどに生きる子供たちの生活をテレビで見るのはもちろん初めてではなかったのですが、
この時なぜかそれまでになかったほどに大きく心を揺さぶられ、
「ここに行って自分の目で見たい」と強く感じたんです。
だから、2日目にバサックスラム、3日目に孤児院を訪れることができて、この2日間は私にとって本当の意味で夢のような時間でした。

私達は、孤児院の子供たちも通う午前中の公立小学校の補修授業が終わるのを待って孤児院に行ったのですが、授業が終わった途端孤児院の子供たちが一斉に駆け寄ってきて我先にと私達の手を取り孤児院まで案内してくれました。
大通りを渡り、細くてくねくねとした道を少し進んだところに孤児院はありました。
2階建ての小さな建物で、その造りはすごく質素。雨が降るとあちらこちらで滝のような雨漏りをするような建物でした。
ほとんどの子が5〜13歳という中で、ひとり最年長で16歳だという男の子がいました。
彼は2年前にこの孤児院にきたそうで、今は学校で英語を勉強しているとのことでした。孤児院にいる子供たちはMakeさんの支援で日本語を勉強しているためみんな簡単な日本語を聞き取りそして話すことができるのですが、ここで日本語を勉強することができるのは小学校に通う小さな子供たちだけ。だからここに来た時すでに14歳だった彼は、日本語を学んでいないため日本語が他の子供たちよりも苦手なようでした。
でも、将来の夢を聞いてみると、「カンボジアに来た日本人観光客の通訳」と彼は答えました。だから、今は勉強できないけれどいつかちゃんと日本語を勉強して夢を叶えたいそうです。とびっきりの笑顔で話す彼は、日本で苦労もせず毎日のうのうと大学に通う私の何倍も輝いているように思えました。
遊びの途中に子供たちに少しインタビューをしたのですが、普通に明るく元気にはしゃぎ回っている子がここに来る前に父親を亡くし母親は子供を置いてどこかへ消え、残された兄弟だけで近所の田んぼの手伝いをしその日食べるためのお金を稼いでいたとか、どの子もその振る舞いと表情からは想像のつかない過去を持っている子たちばかりでした。
今回ここを訪れるまでは、やっぱり孤児なわけだから、親に会いたい気持ちが強いのかな、と思っていたのですが聞いてみると会いたいは会いたいけど元の生活には戻りたくないというのがここで暮らす子供たちの本音なようでした。Makeのスタッフさんも言っていましたが、子供たちは私達が思っている以上に自分の生い立ちやここに来るまでに至った経緯についてはドライなようです。
孤児院にもよるのでしょうが、どの子も過去の環境が過酷であっただけに、衣食住、それに加えて勉強までもすることができる今の孤児院での生活を本当に幸せに感じていてきっとずっとここにいたいと思っているんだろうなと感じました。
予想していたよりも何倍も何倍もエネルギーとパワーと思いやりに満ち溢れていて、キラキラしていた孤児院の子供たち。最初から最後まで、この子たちがかわいそうだとは一瞬たりとも思わなかった。
この子たちの将来が心から気になるし、純粋にそれぞれの夢が実現してほしいと思う。
本当に感動とパワーと私にとってはそれ以上のものを与えてもらった2日間だった。
でも、ここにいる子たちは運よく救われたほんの一握りの子たちだということも絶対に忘れない。

ではあと5日間元気に楽しみまーす!

*昨日書き途中で停電になってしまいアップできなかったので一日遅れで投稿してます!

イベント局2年 竹渕慶
posted by S.A.L. at 00:20 | Comment(1) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月17日

見てほしい景色

ヨルダンに来て早くも9日間。緑1割茶色9割の景色、雲がなくカラッと晴れた青い空、そして「ジャバニー!」と呼びかけてくるたくさんの声にもだいぶ慣れてしまいました。
 ただ、ここ2日間はまるでちがう国、大袈裟に言ってしまえばちがう星にまで来てしまったのではないかという感覚。私たちは昨日今日とヨルダン南部に位置するワディラム砂漠に行ってきました。
 ジープで少し進めばそこは文字通り無人、映画に出てきそうな岩山と、所々にかろうじて草が生えているだけ。遊園地のアトラクションのようなジープに乗りながら、ロッククライミングや遺跡のスポットを巡っていると、あっという間に夕方になっていました。泊まるキャンプ場に着くと私たちは岩に登り、日が沈むのを眺めることに。太陽の位置が低くなると空は水色からオレンジへと同化していき、遠くに連なる岩山のシルエットがはっきりしてきます。映画で泣くことはあっても、景色がきれいで泣くという経験は初めてでした。
 太陽が沈むまでの20分間、この貴重な時間に、何について、そして誰について考えようと思ったとき、頭に浮かんできたのは、この旅で出会った子どもたちでした。
 FoMや今回試みた絵のプロジェクトで最も強く感じたこと。それは、「この子たちの純粋な好奇心を消すようなことが絶対あってほしくない」ということです。カメラを初めて持ったときのキラキラした目や、カラフルなクレヨンを存分に使った作品を見ていると、彼らはこれからもっともっとたくさんの「初めて」や「不思議」を経験していくのだろうし 
、ぜひそうであってほしい。きっときれいな景色を見たり、ものを作ったり、いろんな人と出会ったりするわけで、その一貫と言ったらおかしいかもしれないけれど、彼らにもこの場所からこの夕日を見てほしいと思ったのです。イラクでお父さんを拉致されて命からがらでヨルダンに来た子にも、自分の生まれ故郷に行ったことがないパレスチナ人の子にも、そして貧困に苦しみながらもたくさんの難民と共存していかなければならないヨルダン人の子たちにも。教育の問題を解決していくのは簡単ではないし時間がかかるけれど、その間に彼らの感受性がすり減ることが、どうかありませんように。自分はもともと情操教育に興味があったのですが、今回直接子どもたちの顔を見て、心にずーんと重く響くものがありました。それはおそらく彼らにわいた愛情であり、逆び彼らの将来への危機感でもあるのかもしれません。
 
私は正義感が強い人間でも、特別思いやりのある人間でもありません。今、こんなふうに人のために心から祈るようになれたのは、ほかでもない、ヨルダンで出会ったすべての子どもたちのおかげです。日本に帰っても夕日を見るたびに、自分が一度でもこんな優しい気持ちになれたことを思い出したい。そして、彼らの将来を「カラフル」にしていくことに、自分が何らかの形で関わっていけたらと思います。

イベント局 1年 原菜月


笑顔

  ぎらぎらの太陽に、夜でも鳴り響く車のクラクション。毎朝街中に聞こえるコーラン、レストランから漂う水タバコの香り…
  2週間のヨルダンスタツアも折り返し地点を過ぎた頃から、このようなヨルダンの日常に、驚くほど馴染んでいる自分がいます。

  昨日、私はイラク出身のとある少年の家を訪れました。彼は、とにかく笑顔が素敵で、映画好きの15歳。現在は、首都アンマンから車で少し走ったところで、母・弟2人・おばさんと暮らしています。
彼の父は、彼が7歳のとき、イラクのバクダッドで殺されました。当時その地域で宗教的マイノリティーであったために、仕事の帰り道、何者かによって銃殺されたのです。数日後、彼自身もおばさんと一緒にいるところ、連れさられそうになったことがあります。それを機に、安全を求め、家族でヨルダンに移ったのです。
  彼の母は乳ガン・骨肉腫・肝臓ガンにおかされ、薬治療を受けています。薬の副作用により髪は抜け落ち、右足全体に痛みが残っています。
最も衝撃を受けたのは、実はあの笑顔の少年、そして兄弟全員がサラセミアという病気だったのです。
国連からの支援は行き届いておらず、薬を購入する十分なお金がないために、母の分だけかろうじて、しかし3人の薬は購入できずにいるのです。

  私は思いました。世の中には、戦争をしたり武器を作るお金はあるのに、病気を治すためのお金が十分にないなんて…
  純粋に、家族みんなで暮らしたいと、ただそう願う家族に立て続けに病が降りかかるなんて…

  それでも、父の代わりに、母のためにと、率先して家事を手伝い、弟を守り、母を守る15歳の彼。母と話している彼の顔には、今も忘れられないくらいまぶしい笑顔が輝くのです。

  ワディラム砂漠で、沈んでゆく太陽を見て、私は彼の笑顔を思い出しました。まるで太陽のように周りを明るく照らし、人々を笑顔にできる彼を思い出して、涙が出ました。
  私はこの旅で、たくさんの笑顔に出会っています。私ができることは、この笑顔を消さないよう、全力で学び、感じ、伝えることだと思いました。日本に戻ったら調べたいことがたくさんあります。もっと知識を増やして、またこの地に来たいです。そして残り2日、彼の笑顔を胸に、ヨルダンライフ充実させます。

広報局1年 木藤真夕

2011年09月16日

わからない。


ヨルダンで一週間を過ごし、陸路で国境を越え、僕は今イスラエルのエルサレムにいる。




国境を越えるとき、イスラエルの出入国審査は厳しいと言われていたので、スタツアに行くことが初めてだった僕は少しばかり不安を持っていた。

結局審査は少し時間がかかったもの意外とスムーズに進んだ。

しかし、近くにいたパレスチナ人達は別のルートを通され、厳重に審査されていた。

同じ人間ながら明らかに扱いが違い、話には聞いていたもののこんなにも差別されるとは考えていなかった。





このようにイスラエルではパレスチナ人が差別されることが多くある。




僕は一昨日エルサレムの旧市街に行った。

そこはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の3つの宗教の中心地であり、半径1kmの間に争い合った3つの宗教が共存している場所である。

そして、イスラエル国内では、パレスチナで生まれた人間がイスラエル側に入ることができない。

つまり、イスラエル側にあるエルサレムには宗教に関わらずパレスチナで生まれた人間は入ることができないということだ。

これは本来イスラエルとパレスチナが共有すべきエルサレムをイスラエルが占領してることから始まっている。





イスラエルでのパレスチナ人の差別の元をたどると、
確かにユダヤ人は過去にホロコーストにより大量虐殺され、その怒りを今でもひきずっていたり、また、二千年もの間ユダヤ人国家を作りたいという思いを持ち続けていたということもある。

またパレスチナ人がイスラエルでテロを起こすという事実もある。

しかし、ホロコーストの復讐としてパレスチナ人を差別することは標的が違うとも思うし、国を作るときに他の宗教を迫害する必要もなかったと思う。

イスラエルがパレスチナ自治区でテロと似たようなことをしているという事実もある。

そしてこの問題はイギリスやアメリカなどの先進国による戦略も絡んでいて、この国だけの問題ではない。





結局、どちらが正しくて、どちらが悪いのかを決めることは、僕にはできない。

できないというよりは、『わからない』。

この『わからない』という答えが今の現状を表していると僕は思う。





この国のこの状況はいつか変わるのだろうか。

それは良い方向に進むのか、悪い方向に進むのか。

いつかこの『わからない』がなくなりますように。


渉外局1年  押尾 聡

民なき土地の民

民なき土地に、土地なき民を

第二次大戦中の、ナチスドイツによる大量虐殺を耐えたユダヤ人たちが、パレスチナの地にイスラエルを建国した際に用いたスローガンである


僕はその「民なき土地」に建てられた国、イスラエルに昨日から来ている。イスラエルという国名を聞いて皆さんは何をイメージするだろうか。
攻撃やテロが繰り返されている危険な国で、渡航するのはちょっと…といったところだろうか。
しかし、僕の見たエルサレムは観光都市そのもので、新市街の調和のとれた街並みはパリの街のようであったし、三代宗教の聖地が集まる旧市街からは厳かさを確かに感じ、それと共に暮らす人々の平和な息遣いが聞こえてくるようだった。
だからといってイスラエルの抱える緊張を僕達に感じさせる場面がなかったわけではない。旧市街の中に位置するユダヤ教の聖地の「嘆きの壁」に近づくにつれて、イスラエル兵をちらほらと見かけるようになる。そしてついに「嘆きの壁」へのゲートをくぐると、そこにはひしめく観光客の数に匹敵する程の数のイスラエル兵がライフル銃を肩から下げながら職務をしている光景に圧倒された。ライフル銃というのは警察官が腰から下げている拳銃と違い、それを身につけた人間が近付いて来るだけで、威圧感と恐怖を感じるような武器である。それをぶら下げているのは志願して集まってきた兵士ではなく、18歳から徴兵されて兵役についている女性も含めた若者達であり、中には僕達よりもまだどこかあどけないような兵士もいた。

日本よりも豊かなようにも見えるこの国で何故そこまで強力な軍事体制を布く必要があるのか。彼らの敵の正体とは一体何なのか。

「僕はこの草を見ると悲しくなるんだ。パレスチナにも生えてるもので、故郷を思い出すから。」
一枚の写真を指差して、アハンマドが僕の目をちらりと見ながら呟く。アハンマドはヨルダンに住むパレスチナ難民の12歳の少年だ。
僕は昨日までヨルダンにいた。そして、ニ日間に渡ってアハンマドや他の難民の子ども達と関わってきた。
その中で僕たちはFocus on Myelfというプロジェクトを行った。まず子どもたちに、大切なもの、辛いもの、自分の国の紹介を写真に撮ってきてもらう。そして、その写真の中から僕らと彼らの意識の違いや、各国の子どもの意識の違いに気づいてもらうための写真展を開くプロジェクトだ。
アハンマドが指差していたのは、辛いものと自分の国の紹介として彼が撮って来たものである。他の子供達も同様に、辛いものの写真としてパレスチナに因んだ何かが写ったものを指差す。ただ、彼らにパレスチナに行ったことはあるのかと尋ねると、NO、と全員が答えた。

イスラエルは、第二次対戦中のナチスドイツによる大量虐殺を耐えたユダヤ人によって「民なき土地」につくられた。過去二千年以上に渡って迫害されてきた彼らは、「土地なき民」として世界を放浪した。その間に彼らをユダヤ人たらしめたのは、旧約聖書の中でユダヤ人に約束された「カナンの地」であるパレスチナにいつか帰れるという信仰だけである。

そして彼らは、1948年に約束の地パレスチナを手に入れる。その一方で、パレスチナを追われたアハンマドの先祖たちはヨルダンなどに逃れた。そしてその子孫であるアハンマド達は全世界に450万人以上の規模となり、そのほとんどが今でもパレスチナに足を踏み入れることを許されていない。そして、パレスチナの土地を取り返すための戦いを続けている。

かつての「民なき土地の民」たちが、今度は「土地なき民」となり、先祖の地に帰る日を夢見て世界をさまよっている。

僕は両方の「土地なき民」達に安息の日が訪れることを心から願う。


日本にいるとわかりにくい両国の姿を書くことで、イスラエルとパレスチナの問題に一人でも多くの人が興味を持ってくれたら思いこの記事を書きました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


広報局一年 藤井義隆

百聞は一見にしかず

はじめに、カンボジアスタツアはビジネス班と教育班の二組に分かれて活動しています。自分はビジネス班に所属しているので主にカンボジアでのビジネスの話が多くなるかと思います。


まず、カンボジアに来て思ったことは、「事前に日本で本を見たりして予想していたほどカンボジアは発展途上国という感じではないな」ということでした。自分が勝手に思っていたカンボジア像では最近発展しつつあるとはいえ、日本に住む自分のような人にはまだまだ生活しづらい環境ではと思っていました。しかし、実際は外国企業もたくさん進出していて、自分が持っていたイメージとは違いました。


また、実際にカンボジアに訪れ、現地でビジネスをしている方々のお話を聞くことができたのはかなり貴重な体験でした。私は今回のカンボジアスタツアを通し、BoPビジネス(低所得者層を巻き込んだビジネス)について学び、理解を深めようと考えています。単に学ぶだけなら、日本でもできるのではないかと思うかもしれませんが、BoPビジネスに関して日本の書籍などから得られる知識には限界があります。そのため、本当にBoPについて知りたいならば、現地に行き直接聞いてみるのが一番ではと考えました。


実際、現地でビジネスを行っている方々に話を聞いたところ、自分の抱いていたBoPビジネスというビジネスモデルは簡単に崩されました。自分の中のイメージではBoPは企業も儲けて低所得者層も支援できる理想的なビジネスモデルだと思っていました。しかし、単純にBoPビジネスといっても、それに対する現地の日本人の企業、企業家の方々の考え方は皆少しずつ違いました。そのなかでも皆さんが一貫して言っていたのはBoPビジネスは誰もが得するような夢のようなではなく、利益追求をせざるを得ない企業側の立場からすれば、実際はもっと現実的に考えなければ成り立たないとのことでした。この話を聞き、すごく納得させられましたが、少しショックな部分もありました。しかし、夢のようなあいまいなBoPビジネスモデルのままでは通用しないという事実を知らなければ何も始まりません。


まだ、活動を始めてからは二日目ですが、現地の方に直接お話を聞いていなければ、私の中のBoPビジネスのイメージはただの空想論のままでした。自分の足で現地に訪れて初めて分かることが本当にあり、「百聞は一見にしかず」とはこういうことなのかなと、実感させられました。


今日はいろんな意味で疲れましたが、明日以降も様々な発見をすることができることを期待して残りの時間を有意義に楽しみたいと思います。


【渉外局二年 成田遼平】
posted by S.A.L. at 03:51 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

カンボジアの子供たちと出会って

カンボジアスタツア3日目。
教育班は、公立の小学校と孤児院を訪ねました。

率直に、子供たちの笑顔がすっごくかわいかったです^^

孤児院に行く前は、
子供たちはつらい過去を背負っていて心を閉ざしてるのではないか、
おとなしくてあまりコミュニケーションがとれないのではないか、
などというマイナスのイメージがあったけれど、
そういうイメージはいい意味で覆されました。

子供たちはとても明るくて人懐っこくて、
披露してくれた民族舞踊を踊っている姿や
私たちにに思いやりをもって接してくれる姿は、
この子達に親がいないという事実を感じさせませんでした。

でも、子供たちに孤児院での生活をインタビューしたり、
小学校で孤児院の子が差別されているをいうお話を聞いたりする中で、
子供たちは、孤児院の生活を楽しみながらも親に会いたいと思っていたり、
自身が孤児であることを日常的に感じてしまったりするのだと思うと同時に、
カンボジアでは家庭の貧困ゆえの孤児が当たり前に存在するということ実感しました。



スタツア3日目を終えて、
さまざまな支援の対する考え方やあり方があって
そのどれが正しくてどれが間違っているとはいえない
からこその支援の難しさを感じています。

これからのスタツアの中でさまざまな考え方を知り吸収し
自分の考えを深めていきたいと思います。


国際局1年 三井薫子
posted by S.A.L. at 02:27 | Comment(0) | 2011夏-カンボジアスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月15日

10年目に



絶対に何かが起こると思っていた。


2011年9月11日。


そびえ立つ双頭のビルに突き刺さるボーイング
黒煙をあげ崩れ落ちるワールドトレードセンター
全世界を震撼させた米同時多発テロからちょうど10年。

その日、私はヨルダン、ペトラ遺跡にいた。

奇しくも今年の5月にオサマ・ビンラディン氏が殺害されたこともあり、
私はこの日に自分がアラブ人に囲まれて中東という地域にいることに感謝しつつ、同時に恐怖もしていた。

しかし、実際にその日何かが起こることは無かった。

私はほっとしたと同時になにか肩透かしを食らったような気分だった。
だが、この時の私の考えは全くもって私たち外側の人間の勝手な想像なんだと、後になってはっとした。

「9.11」という日になにかが起こるに違いないという私の考えには、


「中東のひとは、あるいはイスラム教のひとは、
9.11に特別な感情を抱いているに違いない」
ひいては
「またあの日のようにテロを起こすに違いない」

そんな私たちのステレオタイプ、偏見が色濃く影を落としているのだ。


本当は、そんなふうに一概に捉えることは過ちだと、
私たち外側の人間こそ冷静に
彼らの本当の姿を見なくてはいけないんだと、
そう考えて、
そういうふうに周りにむけて発信するつもりで
ヨルダンに来ていたはずなのに、
結局私もまたそのステレオタイプを捨て去ることが出来ていなかったのだ。

 そう感じると同時に
私はその日までに出会った数多くのアラブ人に対し
申し訳ない気持ちになった。


精一杯歌や踊りで私たちを歓迎してくれたパレスチナ難民の子供たち、
恋に悩んだり、進路に悩んだりしていたイラク難民の女の子たち、
私のあげたほお紅を嬉しそうにつけていたベドウィンの少女、

そして
すれ違うたびに「welcome to Jordan!」と
私たち日本人に笑顔であいさつしてくれるヨルダンのひとびと。

当たり前だけど私たちと何ひとつかわらない
むしろ、より寛容で、おおらかで優しい人たちばかりだ。


もちろん、そうに違いないと頭でわかっていても、
私も実際にアラブ諸国を訪れるまで気持ちの上で、
心の底からそう思うことはできていなかった。

中東という遠い国であることや、情報の少なさもあって、
「よくわからない」ものへの恐怖もあるかもしれない。

それでも、
少なくともイラク戦争時に自衛隊を派遣した国の一員としても、
「よくわからない」では済まされないはずだ。
きちんと中東や、アラブに生きるひとびとに向き合い、
彼らのことを理解しようと努力することを怠ってはいけない。
改めてそう感じた。
それこそが、未だに銃撃戦のやまぬイラクや、パレスチナのひとびとへの
私たちのひとつの責任の取り方、ひとつの援助でもあると思うのだ。


国民的アイドルグループもこう歌っているではないか。
「精悍な顔つきで構えた銃は 他でもなく僕らの心に突きつけられている」と。







これは2011年9月11日の記事です。
この日は奇しくも3.11からちょうど半年に当たる日でもありました。
全ての被災地で、同じように心ない偏見が生まれませんように。



(文責 広報局3年 黒島秀佳)
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