2011年08月31日

Greeting from Ashalayam!


Greeting from Ashalayam!


8月29日、私たちはデリー国際空港の近くにある「アーシャー子ども村」を訪問した。

アーシャー子ども村は、ストリートチルドレンや親に捨てられ行き場をなくした
子どもたちなどを駅やバス停などで警察が声をかけ、子ども村に連れてきたり、
チャイルドラインという24時間子どもたちからの相談を受け付けている電話を
通して保護し、勉強や食事、寝る場所を提供している施設のことである。
また心に傷を負っている子どものために専門のカウンセラーが子どもたちをケアしている。

子ども村には現在125名の子どもたちがいて、基本的には18歳までこの施設にいることができる。
しかし、仕事が見つからなかったり、大学に進学したい場合は、
仕事が見つかるまでや大学を卒業するまでは子ども村にいてもらう。

年間50人ほどの子どもたちが子ども村に訪れるが、
親と連絡が取れれば自宅に帰すようにしている。
そのうち連絡が取れない子どもは毎年20人〜25人ほど。

子どもたちは子ども村で勉強する以外に普通の学校に通うため、
午前中は近くの学校に行っている。


今回、普段子どもたちがどんな生活をしているのか見学することができた。
寝室は一人一つのベッドがあり、食事は専門のコックが料理を振る舞い、
教室は広く、勉強する環境は整っていた。
一瞬しか見ていないけれど、私が子どもたちの生活態度を見て、
子どもたちは現在の生活を送れていることにとても感謝しているという
気持ちがとても伝わってきた。


そもそも冒頭に書いた「Greeting from Ashalayam!」とは、
アーシャー子ども村を訪問するにあたって、子ども村の校長先生である
Father Georgeさんと私がメールでやりとりをしていたとき、
Fr.Georgeさんが毎回メールの冒頭に付けていた一言だ。

Ashalayamという言葉の意味を知らなかった私は、
今回訪問した際にFr.Georgeさんと直接お話しすることができ
初めてこの一文の意味を理解することができた。

「Ashalayam」という言葉はヒンディー語で「夢」という意味である。

またFr.Georgeさんは

「子どもたち一人一人に夢を持たせること。」

が子ども村で一番大変な課題であるともおっしゃっていた。

子ども村に保護される前の子どもたちは
皆一日一日生活することが精いっぱいで夢を持つことは困難な状況だった。
夢を持てばその夢に向かって勉強をしたり、何かを一生懸命頑張ることができる。
しかし夢を持つには、何かきっかけがなければ夢を持つことはできない。
一個でも多くのきっかけを与えることができれば
大きな夢へとつながるかもしれない。

今回のインドスタツアで行う
マイクロクレジットをベースとしたChild Creditプロジェクトでは
「お金を借りる」「材料を買う」「商品を作る」「商品を売る」などという
工程を通して、お金の使い方とそれにまつわる約束ごとを理解してもらい
将来を考える時の参考材料の一つにしてもらうことが目的だ。

このプロジェクトを通して、子どもたちの将来につながるきっかけを
少しでも与えることができればいいなと思う。

〈イベント局1年 加藤礼子 〉
posted by S.A.L. at 17:16 | Comment(0) | 2011夏-インドスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月30日

【ユーラシア横断スタツア:インド・ラダック地方】民族の多様性。

ぼくは日本人だ。それ以上でも、以下でもない。日本人であるというアイデンティティを持っている。「何ジン?」と聞かれれば間違いなく「日本人」と答える。しかしそこで「何民族なの?」と聞かれると、答えに戸惑う。チベットを訪れた際、チベット民族のおばあちゃんにそう聞かれたことがあるが、ぼくは言葉に詰まった。日本に生まれ22年間生きてくる上で、「民族」を意識する必要に迫られたことがなかったからだ。

よくよく考えてみれば、日本はアイヌや琉球などの少数「民族」と人口の大多数を占める「シャモ(アイヌ語で和人)」にわかれている。しかし、もはや現在の日本においてそれらの境界線はほとんど存在していない。日本人は「日本人」というひとつの存在にまとめあげられているのだ。

これは、明治から昭和における日本国政府の政策の「おかげ」であると言えるだろう。日本国政府による帝国主義的な政策によって、少数民族はシャモに「同化」させられた。伝統的な文化は破壊され、言葉も「国語」に統一されてしまったのだ。その「おかげ」で日本人は「日本人」になり、ぼくはわざわざ自分が何民族であるのかを問う必要もなくなった、というわけだ。

*

なんでインドのラダック地方に来て、ぼくはそんなことを考えているのか。それはぼくが、インドにある民族の多様性、そしてそれぞれのアイデンティティや文化が保たれている事実に驚き、感動したからである。

*

たとえばカシミールでぼくは、「
I am Kashimir, but also we are happy with India.」というおじさんと出会った。彼は満面の笑みをたたえながら、カシミールがインドであることに対する素晴らしさをぼくに説いてくれた。そしてたとえばラダックでは、「I am Ladakhy, and also India.」という少年と出会った。「but I am not Tibetan.」と彼はつづけた。

そう、これがぼくの感じた多様性である。彼らはインド人であると同時に、それぞれの民族アイデンティティを持ち合わせている。インドに対するナショナル・アイデンティティよりも、自分の民族に対するエスニック・アイデンティティを上に捉えているのだ。彼らはそれぞれがウルドゥ語やらラダック語などの独自の言語を話し、イスラームとチベット仏教という独自の文化を保ち続けている。

ぼくがカシミールで泊まった「ハウスボート」のオーナーは、インド人の客とは「英語で話す」という。国籍の上ではインド人であるはずのオーナーが「インド人の客」と言うことからもまた、彼が「カシミール」というエスニック・アイデンティティをしっかりと持ち合わせている事実に気がつかされる。

*

だが近年、そんな状況にも少しずつ変化が訪れている。ラダック語を話せるラダック人が減っているというのだ。それは学校において、ウルドゥ語やヒンディ語の教育に重点が置かれているから。カシミールでも同様に、ウルドゥ語よりも英語やヒンディ語などでコミュニケーションをとる人が増えているようだ。

この変化は、インド政府が「インド人」というひとつの存在を作り上げようとしているがゆえに、訪れているのではないだろうか。インド政府は、少数民族を、大多数を占めるヒンディに同化しようとしていないだろうか。

具体的な証拠はないが、ぼくにはそう思えてならない。インド人が「インド人」であれば、国内においてヒト・モノ・カネを集めやすいし、小競り合いもなくなる。領土だって、確定する。コミュニケーションがヒンディ語や英語で統一されれば、国内のすべてが円滑化する。すべてが、インド政府にとって有利に働くのだ。いわば「国内のフラット化」である。

もちろん国内のフラット化は、インド政府だけではなく、それぞれの民族にとって有利に働く面もあるだろう。特に経済的な面で、それは強く現れるはずだ。しかし、伝統的な文化や言葉が破壊されていくことが取り返しのつかない大きな損失であるのは、アイヌや琉球の方々の尊い犠牲が証明している通りである。

*

ひとりの「シャモ」としてぼくは、インド人が「インド人」にまとまって欲しくないと思う。それぞれの民族が長年築き上げてきた伝統、文化、言葉。これらは一度失われたら二度とは戻らない、とても価値のある存在だ。シャモが繰り返した罪を、こんな素晴らしい多様性に溢れたインドで繰り返して欲しくない。ぼくは自責の念を感じながら、そんなことを心から願うのだ。

【文責:広報局4年 はたちこうた】
posted by S.A.L. at 22:11 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月29日

【ユーラシア横断スタツア:インド・ラダック地方】変化の圧力

インド、ラダック地方の中心地である、レーという街に辿り着いた翌日、僕らはひとりの青年に出会った。

彼の名前はソナム。砂埃と排気ガスの舞うバザールの一角に位置する、とある小洒落たカフェの店員だった。

僕らは無線LAN環境のあるという近代的なそのカフェで休息をとっていたが、そのうちに彼と世間話をする機会があった。

ロングヘアーにサングラス、革ジャンにジーンズという、いかにも「今風」の格好をした彼は、マルボーロを吹かしながら、独特の訛りを持つ拙い英語でこう言った。

「俺は友達と3人でバンドやってるんだ。どうだ聞いてくれよこの曲。『バカラ(チベット仏教におけるラマ僧の意)』って曲なんだ。いいだろう?」

そうして彼のiPhoneから流れてきたのは、英語でラマ僧を讃えるロック・ミュージックだった。

そのうちに彼は、最近バイクを購入したことや、恋人がいることを嬉々として打ち明けてくれた。そして話題は彼の家族にのぼった。

「俺の両親は村でカシミアのファーマーをやってるんだ」



ラダックにはじめてやってきたとき、僕らはこの地がインドにあるということに驚いた。なぜなら、そこに住まう人々の人種も、言葉も、宗教も、例えばデリーの人々のそれとは大きく異なるからだ。

そこには、つい40年ほど前まで、ラダックが近代的産業社会の影響を受けることなく、独自の自足的な伝統文化を発展・継承してきたという背景がある。

彼らは、長い年月を経て、自分たちの文化や環境に即し、この地で生きるに最適な形の、いわばラダック的に完璧な生活様式を生み出した。そしてそれは、ラダックの人々に幸福で満ち足りた日々をもたらしつづけてきた。

しかしながら、1974年にインド政府がラダックの観光地化と開発を決定してから、状況は大きく変わったのだという。

それまでラダックにはなかった、西洋式産業社会の「先端的」「文明的」な様々がこの地に流入した。

僕がこれまでこのブログでお伝えしてきたような「フラット化」の圧力が、この地にもやってきたのである。

そして彼らのなかには、これは特に若者において顕著にみられる傾向なのだが、彼らの自足的な伝統文化を「後退的」で「非文明的」と捉え、西洋式産業文化の受容に積極的な姿勢を示す人々が出現してきた。

ラダックの人々の生活は、「金」で回るようになり、僕らのそれと同じようにせわしなくなった。

僕らが街を歩けば、土産物屋の人々が、必死に声をかけてくる。

”Hey my friend! Kon-nichiha! Come! Come! Beautiful Scarves! 1 minute! 1 minute!”
(兄ちゃん!コンニチハ!おいでおいで!綺麗なスカーフがあるよ!1分だけ、1分だけでいいから!)

あの青年は、まさにそんなラダックの変化を象徴しているように僕らには思われた。


僕には、西洋式産業文化とラダック式伝統文化のどちらが優れているかなんてわからない。

ラダックの変化の良し悪しだって判断できない。

良し悪しを判定することが正しいのかもわからない。

ただ、そんな僕にもわかったことはある。

それは、世界フラット化の圧力の想像を絶するまでの強大さと、そしてその圧力に、いま僕の目の前でひとつの美しい文化が押しつぶされそうとしているということだ。


(文責:国際局 高田湧太郎)
posted by S.A.L. at 18:03 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月28日

【ユーラシア横断スタツア:インド】 「感謝の話」

*

インド北部のスリナガルで過ごしたある夜、母を亡くす夢を見た。

僕は昔から、夢の中で起きたことを詳細に記憶する事が苦手だ。

そして今回も、「母さんが死んだ」という漠然とした夢の内容が、僕の右脳を揺さぶって深夜3時に目を覚ました。

捉えどころのない悲しみにかられ、友人が隣で眠るベッドで、一人涙した。

考えてみれば親が死ぬことを考えるのなんて初めてだった。
8年前、母が重い病気とわかったときでさえ、親を失うことを考えたことはなかった。

翌朝、どうしてただの夢なのに悲しかったんだろうと、想いを巡らせた。

「それはお前、マザーコンプレックスだよ」

そう言われれば否定はできないかもしれない。
ただこの悲しみは、そんな感情だけで説明できるものではない気がしてならなかった。

*

スリナガルから今滞在しているレーまではジープをチャーターして陸路で行く方法を選択した。(昨日の瀬谷のブログ参照)

その道のりはあまりに険しく、過酷だった。車に乗ってから10時間以上経った頃、何もない山奥でタイヤがパンクしたのだ。

文字通り、絶望した。陸路を選んだことを全力で後悔した。その時点でレーまでは200q以上残っていたのである。

しかし、そこを偶然通りがかったチベット人が運転する2台の車が僕らのそばで停車した。

そしてそのチベット人たちが、彼ら自身から名乗り出て、僕らを目的地まで連れて行ってくれることになったのだ。

彼らの好意に一同心から喜んだ。そして感謝した。僕はチベット人の屈託のない笑顔に心が安らぎ、「Welcome!」と言って車に迎え入れてくれる彼らの大らかさに安堵した。

目的地に無事到着したとき、たった一言だが、改めて、心から「Thank you」と礼を言った。

*

この夜、僕は改めて考えた。なぜ母が亡くなる夢を見たとき悲しかったのか。

それは、大切な存在がこの世からいなくなるという怖れだけではなくて、ある種の「後悔の念」がそうさせていることに、僕は気付いた。

なんの後悔かといえば、それは母が僕のためにしてくれたあらゆることー愛情・親心・気遣い・心遣いーその全てに対して感謝しきれていないことに対する後悔である。

気付かせてくれたのはチベット人たちだった。道すがら出会った彼らの目に余るほどの親切には、誰もが当然のようにありがたいと思う。そして自然にその気持ちを口に出して表現する。

しかし、自分にとって身近な存在の人ほど、自分のことをよく理解してくれて、自分のために動いてくれているはずなのに、その割に僕は感謝の気持ちを言葉なり、行動なりで表現できていないことに気付いた。

それどころか、僕のための気遣いや心遣いを見落とし、気付いてすらいないことだってあるんじゃないか。

仮に夢の中で死んだのが母ではなくて大切な友人であったとしても、僕は同じように悲しかったと思う。

普段からよく一緒にいて、よく喋って、よく遊ぶ人ほど、その距離の近しさから、彼ら彼女らのたくさんの優しさ・気遣い・心遣いを見落としてしまっているのではないかと思う。

僕は少し落ち込んだ。でもこれからは身近な人たちの小さな小さな目に見えない優しさにも、なるべく気付ける人でありたいなと思った。

そして決して卑屈にならず、してもらったことに対して素直に「ありがとう」と言いたい。

なんでもかんでも、されたことに礼を言えば良いというわけではないけれど、僕は人に感謝されたら嬉しくなるから、やっぱり、感謝の気持ちを言葉なり行動なりで表現したいなって思う。

*

午前10時を回っているというのに、相変わらず隣ではたちさんはすやすやと眠っています。

いま僕にとって一番身近なのはユーラシアスタツア組の4人。彼らともこの旅の途中、色々なことがあって、僕自身本当にたくさん支えられました。

改めて「ありがとう」と礼を述べるとともに、「残り26日間よろしくお願いします」という言葉でこのブログを締めくくらせていただきます(笑)

[文責:2年 川又友輔]
posted by S.A.L. at 21:18 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私は今、インドにいる

広報局1年の立山蘭です。
インド滞在3日目の今日、私たちはMobile Crechesとラール・キラーを訪れた。

Mobile Creches
  ここは両親が工事現場で働くこどもたちを預かる託育所であり、インドに60箇所ちかく設けてある。
 生まれてから12歳までの子どもたちがここで健康的に面倒を見てもらえており、教育を受けている。


 施設は目がキラキラした元気な子どもたちの笑顔であふれていた。
 
 手を振ってくれる子がいたり、自ら近寄って話しかけてくれる子もい て、フレンドリーでかわいいなと思うばかりだった。
 
 私たちは日本から遊具を持ってきて、彼らとともに遊んだのだが、中でもシャボン 玉が人気だった。
 初めて見るものなのか、首を傾げ ながら吹いていたり、興味深そうに泡を触ったりしていた。
 楽しさや喜びを素直に表現する子どもたちを見て、とても嬉しかった。



ラール・キラー(Lal Qila)
 オールドデリーの見所の一つでもあるここは赤い砂岩で築かれた城壁から守られる様にして城のような建築物が内側にそびえ立つ。
 柱や梁、壁に彫刻が施されており、装飾をかねた建築構造の美しさに感動した。


 インドではまだ3日間しか滞在していないものの、観光地としてのインドやインドにおける子どもたちの教育現場を見ることができ、私たちは常に様々な方向から事実を見て、考えなくてはならないのだと感じた。
posted by S.A.L. at 14:12 | Comment(0) | 2011夏-インドスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月27日

【ユーラシア横断スタツア:インド、ラダック地方レー】道すがら



小鳥のさえずりが朝を告げるかのように、ゲストハウスには太陽のほのかに明るい光が差し込んでいる。


インド北部ラダック地方レー。ここにはチベット民族が暮らし、独自の文化を形成しながらも近年グローバル化とともに観光地化の一途をたどる。それに伴う様々な文化の流入は、その面影を徐々に薄れつつさせる。 海抜3500mの高さに位置し、乾燥した気候と肌色の山々に囲まれたこの辺境の地に、私を含めた観光客を容易には足を踏ませない。そんな風景が私を包み込む。


だが、インドの首都デリーからダライ・ラマ14世が依拠するダラムサラ。そしてダル湖に浮かぶハウスボートが長旅の疲れを癒す、ジャンムーカシミール州シュリナガルからの陸路の歩み。そんな旅を経てきた私たちにとって、ここは言わば長旅の終わりを告げるゴールであり、この地は私たちをその豊かな自然に溶け込ませるかのように受け入れてくれている。そんな気がする。


空路では味わえない人との出会い、先の道への進路を阻むハプニング、また走り続ける中で代わる代わる変化する美しい景色がこの旅には存在した。そして私たちが経験したこの旅路は、決してバックパックでないと進むことができなかったように思う。


シュリナガルからここレーまで約20時間のジープでの拘束。13,4時間ほどで到着すると言われた当初とのズレも、陸路での移動にはつきものだ。ただその道々は舗装されておらず、ガタガタと揺れる車体が長時間続いたとなると、このルートをもう一度味わうことは遠慮したい。


車輪のわずか数十センチ横にあるのは安危を分ける一筋の境。余談も許さない緊迫感が、ドライバーの強く握りしめたハンドルから感じ取れる。そんな道中に異変は起こった。助手席に座る私の後方に、パタパタパタと不可解な音が鳴り渡る。パンクである。車内から
降りることを余儀なくされた私たちには、長旅の疲れも重なり絶望感が漂った。


目の前にあるのは砂煙を舞いあげる終わりの見えない道、道。そこに2台の車が停車した。その2台から降りてきたのは3人のチベット人。同じくレーに向かってるという。私たちのドライバーは彼らに歩み寄り、交渉を終え、私たちは車を乗り換えることになった。


金はもちろん払ったものの、どこか懐かしい助け合いの精神を感じた。チベット人たちの頬には微笑みと、それによって刻まれたであろう深いシワが浮き上がる。出会いと別れ、そしてその繋がりを示すかの様に新たな出会いは現れる。


バックパックがもたらしてくれる陸路の旅は、日々増えていくその重さを表すかのごとく、人への感謝と尊敬の念を私の胸に押しつける。車内のバックミラーに垂れ下がるダライ・ラマの写真は、高くそびえ立つ山々に消えゆく夕陽の光に照らされる。そして再び車体は揺れ始め、チベット仏教の象徴である彼の写真にくっつく鈴のチリンチリンという音が、車の揺れるガタガタという音と重なった。


【文責:広報局 瀬谷健介】
posted by S.A.L. at 20:42 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

My life is my message.

8月25日、計14時間半の長旅を終え、私たちはインドに降り立った。

ニューデリーのホテルに着き、日本円からガンディーが描かれたルピーへ両替をすますと、いよいよ今回のインドスタディツアーが始まったのだと、わくわくと不安が入り混ざったなんとも言えない気持ちになった。
これから訪れる様々な出会いと様々なハプニング。
様々な”発見”に私たちはいくつ出会うことが出来るだろうか。


今回私たちはこのスタディツアーで3つの施設を訪問することになっている。
〈Mobile Creches〉という子供のデイケアセンター、
〈アーシャ子ども村〉というストレートチルドレン向けの学校施設、
そして〈マザーベイビースクール〉という日本人の方々が中心に運営している学校施設。

子どもたちとの直の触れ合いを通して、私たち15人それぞれが何を感じ何を思うのか。
毎晩の話し合いのなかで、一人一人の”発見”を共有し再考する時間を大切にしたいと思う。



ところで、誰もが知っているインド人といえば、マハトマ ガンディー。
数多く残る彼の言葉のなかにこんな言葉がある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あなたがもし、だれかの心を軽くしたいと思うのなら、
あなたがもし、だれかの心を明るくしたいと思うのなら、

だれかの力になりたい、
だれかを励ましたい、
だれかを勇気づけたい、

あなたがもし、そう思うのなら、
あなたが輝いていることが、何よりのメッセージ。
何の言葉もいらない。

とにかく、あなたが楽しく、明るく、元気でいることが、
夢を生き全力で生きること、その姿勢、その背中が、
まわりの人を励まし、元気づけ、勇気を与える。

あなたの生き様が無言のエールを送り続けている。

もし、いま発しているメッセージが、自分の伝えたいと思っているメッセージと一致しないのなら、
いますぐ、自分の伝えたいメッセージを発する生き方をする。

あなたが発しているメッセージはなんだろうか?
My life is my message.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私がインドの人々に伝えたいメッセージはなんだろうか。
私がインドの子どもたちのために出来ることはなんだろうか。
そもそも宗教も言語も生活習慣も異なる私たちが、インドの人々の何を理解することができるのだろうか。
難しく考えればきりがない。


しかしまずは純粋に楽しむこと、
子どもたちと同じ目線に立って思いっきり遊ぶこと、
目を見て気持ちを伝え合うこと。
そのことが子どもたちになんらかのメッセージを与えることになるのかもしれない。

多くの出会いがあるということは、それだけメッセージを発する機会があるということ。
2週間という短い期間のなかでの一つ一つの出会いを胸に刻み込んで、
インドという国を思いっきり味わいたいと思う。

明日はいくつの出会いが待っているのだろうか。


文責:【国際局 安齋春奈】
posted by S.A.L. at 04:41 | Comment(0) | 2011夏-インドスタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月26日

「日本」の塊


今日のこと、
昨日あったこと、
親と喧嘩したこと、
単位を落としてしまったこと、
恋に落ちそうなこと。


友達とのおしゃべりに上る話題は様々です。
そして、気がつくと何時間も経っていたりします。





ついこの間のこと、私は初めて
自分の国が今どうなっていて、これからどうなるのかを友人と真剣に話すことがありました。


夕飯を食べながらそんな話をするとは考えてもみませんでしたが、思った通りのことをつらつらと並べます。



「政治は行き詰っているし、経済も改善の見通しが立たないし、
天災に襲われつづけているし、うーん……
サッカー女子日本代表のW杯優勝くらいかな、明るいニュースは」
と私が言うと、

「そうだよね、ニュースで見るしネットとか新聞で読むけどそんな感じだもんな」
そう彼は返しました。






しかしはたと気がつくと、私の言葉の中の「日本」は完全にネガティブなもので、
ドイツ人である友人が「ニュースで見る」「ネットとか新聞で読む」ことのオウム返しでしかなかったのです。

彼の頭の中にある鈍い色をした日本像に、ネガティブなイメージの上塗りをしている私はまた、その像に取り込まれていました。




様々な情報でどんどん塗り固められていった末にできあがった、
「落ちていく/落ちていった日本」のイメージの塊が人々の、私の頭の中にあります。


ある19歳の可愛らしいアメリカ人の女の子はこう言いました。
“Japan is no longer the place to be.”
(日本はもう、いるべき場所じゃない)


いやいや、目の前にいるの日本人なんですけど!と言いたくなったけれど、
彼女が日本に行ったことがなくても、その言葉に嘘はありません。
実際、同じように思ってしまう自分もいます。



それでも、「日本人なんですけど!」と率直に思ったことを大切にして、
嘘のない言葉で、彼らの、そして私自身の「日本」のイメージの塊に真新しい切り込みを入れてみたい。
そう強く思わされました。






気がつくとそのドイツ人の友人とは3時間ほど話してしまっていて、

「じゃあ君らが、君が日本を変えていくんだね」
と彼が言って、この話は締めくくられます。

そこでYesと言えず曖昧に微笑んでしまう私は、やっぱり「日本人」みたいです。






【文責:近藤まりこ】
posted by S.A.L. at 14:41 | Comment(0) | お知らせ,イベント情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月25日

カシミール、標高1800mの楽園

カシミール地方に行く前の晩、ぼくは恐怖を感じていた。死ぬんじゃないか、もう日本には帰れないんじゃないか、そんなことをずっと考えていた。「カシミール」ということばの響きがぼくに、いまだ戦闘が絶えない紛争地帯、もしくはテロが頻発する危険地帯を連想させたからだ。砂っぽい大地にムスリムの過激派、そんなイメージがぼくの中で構築されていた。



翌朝、チベット亡命政府があるダラムサラからジープで12時間。ぼくたちは幾重にも重なる峠を越え、そしてインドでいちばん長いという2650mのトンネルを抜けて、カシミールに到達した。

ドライバーが「カシミール!」と叫んだ瞬間だった。夕陽に照らされた美しい山々と、風に波打ち銀色に輝くサフランたちが織り出す最高の景色が、ぼくたちの目の前に広がった。ぼくはほんとうに、文字通り、息を呑んだ。こんなところで戦争が起きていたなんて、にわかには信じ難い。それくらいすばらしい景色が、そこにはあったのだ。カシミールは、標高1800mの高地にある、楽園だった。ぼくは心から、そう思った。


(写真はこちら)



カシミール地方はイスラーム文化圏に属する。ここスリナガルにもモスクがいくつもあり、ラマダンの今は夜がくると大砲の音が街に響き渡る。「ドン」という音が聞こえたら、食事をはじめていいという合図なのだ。街中にはブルカを着た女性がたくさん歩いていて、なんだか異文化のど真ん中にいるんだな、と痛感させられる。

昨日、あるイスラーム教徒と出会った。彼の名前はシャビール。「ぼくは仏教徒が大好きだよ」と、シャビールは切り出した。なんで?とぼくが聞くと、彼は続けた。

「なぜなら、彼らは平和を愛しているからさ。もちろんそれは仏教徒だけではない。イスラーム教徒だって、キリスト教徒だって、みんな平和を愛しているんだ。平和が嫌いな人なんかいない。しかしアフガニスタンやイラクをみてくれ。アメリカやイギリスの政治家は戦争が好きなんだ。ほんとうは平和が好きなイスラーム教徒を、なんでやつらはあんなに殺すんだ」。

ぼくはそれに対して、何もいうことができなかった。少し考えてやっと出てきたセリフは、「I think so too, war is very bad.」という中学生の英作文みたいに陳腐なものだった。



なんで何もいうことができなかったのか。たぶん、テレビや本の中でしか知らない世界がこんなに近くに広がっていることに、ぼくは戸惑ってしまったんだと思う。いままで「現実」だと知らされてきて、自分の頭の中で「現実」として捉えていた世界。それは結局、映画のようにぼやっとした「非現実的なイメージ」に過ぎなかった。それを現実と思い込んでいたに、過ぎなかった。

だからぼくは戸惑ってしまった。「ほんとうにこういう考え方の人がいるんだ」。非現実だと思ってたイメージがほんとうに現実であることに対して、ある種のショックを受けてしまったのだ。

この経験はぼくにとって、イスラーム教徒に対するステレオタイプの強化になったのか、それともステレオタイプの破壊になったのか。どちらなのかはぼくにもわからない。

ただひとつ言えることは、「イスラーム」というものが自分の中で
「ほんとうの存在」になったということだ。それは映画の中の設定でも、本の中の主人公でもなんでもない、紛れもない「現実」なのだ。

ぼくはシャビールと写真を撮って、アドレスを交換した。「写真を送ってくれ。俺のホームページにアップロードして、日本とイスラームのつながりをみんなに知らせていこう」。彼は笑顔で言った。



カシミール地方、特に州都スリナガルの情勢はここ2-3年、落ち着いている。国境沿いの小競り合いはたまにあるものの、大規模な戦闘は起きていないという。しかしぼくのような悪いイメージを持った外国人は、ほとんどここを訪れない。

ダル湖に浮かぶスリナガル名物の「ハウスボート」という水上ホテルも、そこまで活気に溢れているとはいえない。ハウスボートのオーナーが言うには、最近になってやっとインド人観光客が戻りつつあるが、それでもまだまだ20年前の活気とは程遠いらしい。

「この素晴らしさを、日本人の友達に伝えてくれ。そうやってカシミールに観光客を、送ってほしいんだよ」。ぼくはオーナーに、そんなことをいわれた。

いつかこの素晴らしいカシミールが、大勢の観光客で溢れかえる日が来るのだろうか。もしその日が来るとしたら、シャビールはどんなことを考えて、出会った観光客たちに何を語るんだろうか。

そんなことを想像しながら、ぼくはいま、カシミールにいる。目の前には美しい山々と、ハウスボートが浮く美しい湖がある。そしてとても美味しいカシミールティーのシナモンの匂いが、ぼくの鼻をつんと突く。ここはほんとうに、標高1800mの楽園だ。

【広報局4年 はたちこうた】
posted by S.A.L. at 18:19 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月24日

バサックスラムの変化

私は数日前、2度目となるカンボジアのバサックスラムを訪れました。私はそこで、未来への希望を感じる変化を見ました。

バサックスラムは、もともとカンボジアのプノンペンにあったスラムでした。しかし政府がプノンペンの都市計画の一部として、新しい土地を無料で渡すことによって、スラムを郊外へと移しました。新しい土地へとやってきたスラムの住民たちは、その土地に絶望することになりました。なぜならばその土地は水はけが極端に悪く市場からも離れていて、生活に必要な食料や衣服を買いに行くことすら困難な場所だったからです。彼らは元いた土地に戻りたいと主張しましたが、それが受け入れられることはありませんでした。バサックスラム内のマーケットでは栄えているプノンペンよりも食料や生活物資の価格が高く設定されています。これは、物資を運ぶためのガソリン代が上乗せされるからです。(ちなみにカンボジアでのガソリンの価格は1ℓ130円ほどでほとんど日本と変わらないため、彼らの生活を苦しめています。)

これらの状況は彼らにとってまさに負のスパイラルでした。ただでさえ貧困の最中、プノンペンから離れたことによって仕事は減り物価が上がり、よりいっそうの貧困が広がりました。



しかしそんなバサックスラムも、NPOやNGOの支援を受けながら少しずつ変わってきているようです。去年訪れた際、そこらじゅうに捨てられ異臭を放っていたゴミは、少し減ったように感じました。また、なによりも変化を実感したのが水道がひかれたことです。去年まで雨水を生活に使っていたことを考えれば、格段に衛生状態が良くなったといえるでしょう。

去年まで、日本のNPOであるMAKE THE HEAVENに支援されていたバサックスラムの子度おたちは、韓国のNPOにも支援され給食を毎日食べられているようでした。また、数人の子供たちは、スラムから少し離れた学校に車で送ってもらい、英語を学んでいます。

去年、私の目には絶望的に見えたバサックスラムも、いい方向へと変化している。そう思うと、安堵の気持ちがあふれました。

来年はあのバサックはどんな風に変わるんだろう。そんな風に思いながら、タイへと向かう飛行機に乗り込みました。

杉本将太
posted by S.A.L. at 16:40 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

確執と共生のために

「俺はね、インド人が嫌いなんだよ」

こう僕に語りかけてきたのは、タイ王国のバンコクで出会ったインド人でした。

「俺はね、むかしはデリーの旅行会社で働いていたんだ。俺の仕事といえば、問い合わせてくる旅行者にふっかけて、金を騙し取ることだたのさ」

「お前もインドに行ったことがあるならわかるだろう。デリー、アーグラー、ジャイプル、ヴァラナシ。どこにいったって、奴らは笑顔で親切そうにお前に近づいてくる。でも、奴らが実際に考えているのはお前が楽しく旅をできるかどうかなんてことじゃなくて、お前らを利用していかに金儲けができるかってことなんだよ」

「俺はそんな生活に背徳を感じたから、仕事をやめて、バンコクにでてきたんだ」


いま、人生で二度目の訪印を迎え、彼の言葉はかなりの説得力をもって受け止められました。何故なら、彼の言葉を裏付ける複数の実体験が僕にはあったからです。

たとえば、先日、スタツアで行動を共にする川又がこのブログに書いていたような、アライバルビザ取得時におけるトラブル。
傲慢な物乞いと、ボッタクリ露店商。
先日はデリー市民によるデモに遭遇しました。敵は、腐敗する政府。

もちろん、インド人の中には素晴らしい方もいます。また、例えその裏に何か理由があったとしても、しかし、事実として、インドでのネガティヴな経験は枚挙に暇がありません。そして、それらのうちのほとんどが、「自己中心性」という概念をもって理解しようとすれば合点がゆくという事実は、なかなかに重大な問題だと思います。

なぜ他者を顧みず自己の利益を追求する自己中心的態度が問題であるかといえば、それはひとつに幼児的であるからであり、さらに、そのような態度はしばしば人々のあいだに亀裂をもたらすからです。

僕がこのインド人の精神性に関する印象をあるスタツアメンバーに打ち明けたところ、こんな答えがありました。

「インド人は自分の所属するコミュニティ内部のひとには優しいんだよ。ただ、俺たち外部の人間にはそういう態度を示してくるだけで。」

国内外を問わず進展するグローバル化。ますますフラットになってゆく社会。自分の所属するコミュニティの枠を超えて、個人と個人の脱ローカル的な接触の機会がふえてゆくなかで、私たちは新たに、既存のコミュニティの外にいる人々といかにコミュニケーションをはかってゆくかという課題を抱えるようになったのではないでしょうか。

したがって、私たちは、たとえいま自分と利害を共有する人間とのコミュニケーションに成功していたとしても、もはやそれだけでは許されない状況にあると認識するべきなのではないかと思います。

これまでインド人を例にとってきましたが、もちろん、僕たち日本人を含む、この問題は世界に住まう人間すべてが同様に一考に付すべきものです。何故なら、世界に存在する国際問題のなかには、このような自己中心的な発想に由来するものが決して少なくないからです。

では、国際問題の根本的要因ともいえる、人間の自己中心性。これに立ち向かうにはどうしたらいいのか。

実は僕たちの記憶の奥底に、その処方箋が隠されているのです。


「思いやり」

小さなころに、幼稚園や小学校で口酸っぱく投げかけられるこの言葉。あまりに何度も耳にするので、すっかり陳腐化してしまった言葉ではあります。

しかしながら、この言葉には、子供のように自己の利益を追求しつづけることをやめて、大人の理性をもって他者の視点に立とうではないか、そうして共生の道を模索しようではないか、という意味がこめられています。

陳腐化してしまったという事実は逆説的に、今日の社会において、「思いやり」という言葉の価値を再考する必要性を示唆しているのではないでしょうか。



文責:高田湧太郎
posted by S.A.L. at 16:35 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月21日

This is India.

こんにちは!
スタツアユーラシア組は現在、インドのデリーにいます。

今日の夕方にはバスでデリーを発って、最終的にはインド北部のジャンムー・カシミール州に位置するレーという街まで向かいます。

レーを含むその周辺地域をラダックというのですが、ここがまた非常に興味深いところなのです。

ラダックには長めに滞在して、現地からブログを更新していきますのでお楽しみに!



さて昨夜僕らはインドに着いたわけですが、事情により自分と友達1人はインドのビザを取得してませんでした。

現在インドではアライバルビザというものを発給していて、事前にビザを取得していなくても空港でビザを取得して入国できるシステムになっています。

そのアライバルビザを取得する際、僕たちはいきなりインドの洗礼を受けました。

アライバルビザの発給場所へ向かうと並んでいる人もほとんどいなくて、スムーズにもらえそう!と僕たちは安心していました。

ところが最初に費用の62ドルを払ったあと、一向に手続きが進みません。

何も書類を渡されないまま一時間が経ちました。職員に訪ねてみると「まあ座っとけ」と軽くあしらわれます。

僕らのあとから来た人たちが何故か僕らより早くビザを手に入れていきます。わけがわかりません。

そのうち2人だった職員が3人に増えて作業効率があがるかと思われました。

ところがビザの職員たちは楽しそうにおしゃべりを始めてしまいます。イライラが募ります。

耐えかねてもう一度尋ねてみます。「いつになったら手続きが始まるの?」

すると職員の答えはこうでした。

「これからご飯を食べなくちゃいけないからあと一時間くらい待ちなさい。」


初めてのインドで(正確にはまだ入国すらしてなかったわけだけど)、僕はいきなり先制パンチを食らわされてしまいました。



一連の出来事に僕が呆れ返っていたとき、隣にいた友達がぼそりとこう呟きました。


「This is India.」


インド滞在は残り15日。これからどんな楽しいことが起きるのか、胸のトキメキが止まりません!
posted by S.A.L. at 19:47 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月19日

カフェの一角で(ユーラシア横断スタツア)


カオサンロードには、バックパッカーをはじめとした外国人と彼らを対象とした物売りであるタイ人が集まる。

ここは、タイの首都バンコク。
その街並みは日本にも劣らない便利さと豊かさが垣間見え、まるで先進国一つであることを誇示するかのような風景がそこには広がっている。

約1週間をここで過ごしてきた私にとって、今夜がこの国最後の夜となる。
そして、毎日のように長い長い夜が私を異文化の世界へと誘い出す。

レディーボーイという存在をご存知だろうか。
それは女性の格好をし、心までも女性である「オトコ」である。
日本ではオカマと言った方がわかりやすいだろう。

まるで、本当の女性よりも身をこなし、より女性であると言わんばかりに堂々と道を歩き、
男性を誘惑する「彼女ら」は、女性よりも女性であるというアイデンティティを私に感じさせる。

昨夜、タイに留学している先輩に誘っていただき、
ナナと呼ばれる歓楽街に行った。
そこには男性を虜にさせるような魅力を持つ、
ゴーゴーバー(ストリップバー)と呼ばれる店が多く建ち並んでいる。

番号札をつけた女性、レディーボーイらは、
ポールダンスをしながら男性を魅了し、彼らからの指名を待つ。
指名された者は、男性の横に座り会話を楽しみ、気が合えば男性に買われ行き、そうでなければそのまま酒を楽しむというシステムだ。

女性だけの店も、レディーボーイだけの店も行ったが、
どちらも引けをとらないほど彼女らは女性らしさを放っていた。
ほとんど見分けがつかないほど、見た目も仕草も似ている。

タイではレディーボーイを始めとするトランスジェンダーを持つ人々は、
第三の性別として尊重されている。
それを証明するかのようにいくつかのタイの高校には
男性用、女性用、そしてレディーボーイ用のトイレが設置されているそうだ。

タイは私たち日本人にとっては、不可解な存在である彼女らを受け入れ、
セクシャルマイノリティの概念を払拭したという点で、日本より「先進国」であるように思う。

こうしてこの文章を書いているこのカフェには一体、何人のレディーボーイが甘くほろ苦いコーヒーを口に運んでいるのだろうか。
そう思いながら私は、周りにいる女たちを見回した。

【文責:広報局 瀬谷】
posted by S.A.L. at 22:15 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月18日

刺激がなくても。

ぼくはいま、四度目のカンボジアにいる。「カンボジア」という響きから連想されることは、だいたい見たし、経験したし、知った気がする。奢りかも知れないけれど、ぼくはそう思ってる。

*

四度目だと、道もある程度覚えるし、言葉も少しは話せるようになる。スラム街の子供たちと顔見知りになったり、市場やトゥクトゥクでの値切りもかなり上達した。

正直慣れてしまったんだと思う。街に鳴り響くクラクションにも、オールド・マーケットの生活臭にも、トゥクトゥクで味わう向かい風にも、刺激を感じなくなってしまった。でもぼくは、それを悪いことだとは思わない。なぜなら、ぼくは「刺激を得るために」カンボジアに来ているわけではないからだ。

*

ぼくは「カンボジア」と仲良くなりたいと思って、カンボジアに来ている。

*

大学生の国際協力といえばカンボジア。カンボジアに来れば、発展途上国を見ることができる。スラム街、ゴミ山、騒がしく汚い街がある。刺激が、たくさんある。カンボジアには、そんなイメージが潜在的に埋め込まれてしまっている気がする。ぼくはそれが、嫌だ。

なぜなら、カンボジアはアトラクションではないからだ。そこに暮らし、日々を生きていく人たちは、ぼくたちに刺激をもたらすために生きているわけではない。自分たちのために、生きている。
知りたい、見たいというのはいいけれども、それを目的にカンボジアに行くのって、なんだか上から目線なんじゃないか。ぼくはそういうジレンマを感じるのだ。だからぼくは決めた。カンボジアと、仲良くなりたいと。

友達とおなじだ。刺激を求めるために、ぼくらは新しい友達と会っているわけではない。どんどん話して遊んで飲んで、お互いを理解して、刺激とかそういうのじゃなく、阿吽の呼吸が生まれるくらいになりたいから、ぼくたちは友達と会う。四度目だから刺激がないなんて友達に言ったら、嫌われるに決まってる。会えば会うほど、相手のいいところと悪いところを知って、仲良くなることこそが、友達を作る醍醐味なのだ。

*

ぼくはカンボジアに四回来て、いいところと悪いところを知った。刺激はないけれど、まだまだ気がつくこともたくさんある。まだまだ知らないところもある、知りたいところもある。奢っている自分もいる。それゆえ、まだまだカンボジアを知りたいし、まだまだカンボジアを経験したい。

*

ぼくはこれからも何回も、カンボジアに来るだろう。
カンボジアと、仲良くなるために。

【広報局 はたちこうた】
posted by S.A.L. at 01:22 | Comment(2) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月17日

今爪を切っています。

今日はアジアに来て早くも7日目。
朝は一人早起きをして、オールドマーケットというアジアらしいとても大きな市場と、その近くにある現代らしい大型のスーパーマーケットの両方で買い物。お土産やこれからの生活用品を入手!おばちゃんにお尻を叩かれましたが、市場での値切り交渉もうまくいってホクホク^^♪
大体の物は最初に言われた値段の半値くらいで買えます。(交渉が上手い人はもっと値切れるみたいです…)
『市場では 尻叩かれても 値切るべし』これはアジア旅行の鉄則ですね。

14時。2泊お世話になったシェムリアップ(アンコールワットで有名なカンボジアの州)にさよならをして、バスで6時間30分かけて首都プノンペンへ。
昨日のうちに街中にある旅行代理店(?)で予約をしておいたので、ホテル〜バス停まで送迎もしてくれて、スムーズに乗車できました。6時間30分もかかるのに、賃料はなんと5ドル!安い!トゥクトゥクなんて5分くらいで1ドル位とられるのに!!(笑)
「暑くなると嫌だから」と思ってうちわとタオルを持ってバスに乗り込みましが、車内は頭が痛くなる程に冷房が効いていました。「寒っ…冷房止められないし、長袖も毛布も荷台に入れちゃったし…」
うちはは風よけに、タオルはマフラーに早変わり。
『あるものでなんとか頑張る』

そして首都プノンペンに着いたのは20時30分。ご飯を食べてゆっくりして、今爪を切っているところです。
爪が汚い…特に足…(笑) よく歩くし、いつもサンダルだからですかね。
縦にひび割れていて、垢も溜まっていて、皮膚もカサカサ&硬くなっている。。。orz
今の僕の足を見たら「かわいそうだなぁ…」って思う人は少なくないのでは?
でも、普段過ごしている時には全然不快でもなんでもありません。
『見た目より大丈夫』っていう時は結構ありますよね。

『見た目より大丈夫』
ちょっと真面目な話をすると、私達は見た目というか、与えられた情報を自分の価値観で分析して、それが「いいor悪い」「素敵orかわそう」等々判断している事が多いと思います。
「○○もした事ないなんてかわいそう」
「来年から○○で働くんだってね、いいな〜」
「お前は○○だからいいよな」
でも、それは本当にその本人にとってかわいそうなのか、いいことなのか、
本人の価値観をしっかりと考えもせずに自分の意見を口にするのは、時に人を傷つけるし、無責任だと思います。
しっかりと相手が、本人がどう思っているのか、なぜなのかを聞き、多くの価値観を知る事、価値観に触れる事、そして価値観を広げる事はすごく大切な事だと思います。
カンボジアで爪を切りながら何を考えているのやら…(笑)と自分でも思いますが、色々な人と話して、その人たちの価値観に興味を持つ続けること、そして多様性を受け入れる事を大切にしていきたいです。

渉外局 呉 文岳
posted by S.A.L. at 09:07 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平和を、語る

『私のパパとママは私が生まれる前、紛争中の国から逃げてきたから。』


飄々としたホストシスターの話しぶりに、私は思わず聞き流しそうになってしまった。


「へー。…って、え?」



私が高校1年生の時、オーストラリアで留学をしていた時の話である。
私をホストしてくれた家族はオーストラリア人ではなく、スリランカ人だった。
メルボルンでも屈指のお嬢様学校に通う彼女の家はとても大きくて、
外車も2台あって、ガレージにはバーベキューのコンロもあって(使っているところを見たことはないけど)、コンピューター会社の社長をしているというホストマザー・ファザーの羽振りはいつも最高に良かった。

ある日なんの気なしに、どうしてオーストラリアに住んでいるのか、と尋ねたところ、冒頭の答えが返ってきたのだ。


こんなに、“いわゆる良い生活”をしている家族が、紛争なんて暗い過去を背負っていたなんて。想像してもみなかったことであった。



そもそも、スリランカが紛争をしていたということさえ、恥ずかしながら当時の私は知らなかった。
スリランカは、1970・80年代から、国の人口の7割を占めるシンハラ人に対して、2割にも満たないタミル人との内戦を行っていた。
彼女の家族は後者の少数派であるタミル人で、その多くが海外へ移住した民族である。
彼女にそんな事の顛末を聞きながらも、どうしても拭い切れない違和感があった。


一国の国が、それも自分の故郷の国がまっぷたつになり、片方の人々は国から逃げざるを得なかったほどの紛争であったにも拘わらず、彼女の話し方はあまりにも他人ごとのように聴こえたのだ。結局、彼女の『まぁ私が生まれる前の話だし、難しいし、よくは知らないんだけど』というなんだか要領の得ない言葉によってこの話題は締めくくられた。


後日、ホストファザーとホストマザーに改めてスリランカの紛争について尋ねてみると、彼らはとてもリアルに紛争のことについて話して聞かせてくれた。
考えてみれば当たり前である。彼らはこの紛争の当事者、経験者なのだから。
ではなぜ、娘であるホストシスターは紛争についてWikipediaに書いてあるような情報しか知らなかったのだろうか。そんな疑問をぶつけても、ホストマザーもホストファザーも、首を振りながらあいまいに微笑むだけだった。


映画『CROSS ROAD』の舞台は、カンボジア内紛で最後まで激戦地として戦火の中にあったタサエンという小さな町である。
この町にはポル・ポト軍、国王軍それぞれに分かれて殺し合いをした多くの人々が暮らしている。
だが、彼らが自分の見た戦争について子供たちに、若い世代に語るのは、本当に稀なことだそうだ。
まさに重い口を開いて、今回カメラに向かって話してくれたのだろう。
その理由は、“今は平和だから、わざわざ苦しかった戦争時の話をする必要はない”とのことらしい。

その一方で、日本では戦争の記憶を風化させないために、戦争の語り部が平和教育に貢献している。全く逆の考え方だが、私はどちらも間違っていないのではないかと思う。

タサエンには今も地雷が数多く残り、戦禍の痕は未だ色濃い。
そんな中で、紛争を覚えておくことももちろん必要だが、“今はまだ伝える時ではない”ということが言いたかったのであろう。今ある幸せを享受する時間が、紛争が終わってから30年しか経たない彼らには確かにまだ必要なのかもしれない。


オーストラリアのホストマザーとホストファザーの無言の微笑みも、きっとこのような想いからくるものだったのだろう。
今が幸せなんだ、ひとまずそれでいいじゃないか。
紛争の記憶がもし今の平和を乱すものならば、まだ思い出さないでいい。
このような姿勢は戦争を忘れることと必ずしも同義ではない。
今ある幸せをいっぱいに感じること。これもまた、平和の捉え方のひとつだ。

8月15日、日本は66回目の終戦記念日を迎えた。
毎年テレビや新聞で知る戦争体験者の声から、戦時中に比べて今の日本は平和だと感じる。
だが、まず戦争体験者の方たちはどんな思いでその体験を語っているのだろうか。
戦争を知らない私達に訴えかけ、考えて欲しい『平和』とはどんなものだろうか。

自分にとっての『平和』とは。そして今はあなたにとって『平和』なのか。
『CROSS ROAD』も、こんなことを考えるきっかけになる映画となればと思う。


s.a.l.films 「CROSS ROAD」
http://crossroad-salfilms.com/


文責:国際局 はざま
posted by S.A.L. at 02:29 | Comment(0) | CROSS ROAD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月16日

カンボジアのオフタイム

私はいま、タイから14時間の陸路移動を経て人生で2回目のカンボジアに滞在しています。

カンボジアの時間で午前4時、小腹のすいた私と先輩は二人で夜の街へと向かいました。緊張しつつ土地勘の無いまま薄暗い車道を10分ほど歩くと屋台があり、そこで焼き鳥を買いました。カンボジアでは観光客はぼったくられるのが常ですが、値段を聞いたところたいした額じゃない。ついでに近くの店でタバコを2箱と缶のコーラを2本ずつ買ったのですが、合わせて2ドル。なんかいつもより安い!


道端に座り、2人でコーラを飲みながら焼き鳥を食べつつぼーっとしていると、思った以上に人通りが多いことが分かりました。飲み会帰りのおっちゃん達や現地のクラブから出てきたお兄ちゃんやお姉さん、いちゃついてるカップルなどが、がやがやと歩いているのです。それはまさに、日曜日でもみることのできないカンボジアのオフタイムでした。


さらに不思議なことに、昼間だと笑ってしまうほど近寄って声をかけてくるカンボジア人たちが、しれっと前を通り過ぎて行くのです。いつもは面倒くさがっていたけれど、話しかけられないとそれはそれで淋しいものでした。そこで私は気づきました。彼らのオフタイムでは、私たちは「ゲスト」ではなく「ガイコクジン」だということを。

「普段はお前らに付き合ってやってんだぜ、仕事のためにな」と言われているようで悔しさを覚えました。彼らと私の間に去年は感じることのできなかった壁を感じたのです。

来た道をとぼとぼと戻りながら、私は彼らのオフタイムにもっと参加したい、壁を無くして行きたいと思いました。煙たがれたとしても、なぜあの時にもっと積極的に話しかけられなかったのだろうと反省しました。

そこにはきっと、話しかけられて当然、ちやほやされて当然という気持ちがどこかにあったからだと思いました。彼らのオフタイムに溶け込んで、本音を聞かせてもらうためには、積極的な気持ちと、対等なコミュニケーションが必要不可欠だと身をもって知りました。


今回は大きなチャンスを逃してしましましたが幸いなことにこのスタディーツアーはまだ一ヶ月以上残っています。この反省を生かして、このスタディーツアーをより充実したものにしたいと思いました。

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広報局 杉本将太
posted by S.A.L. at 13:53 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月15日

地球は丸いのか?

スタツア日記

トーマス・フリードマンというアメリカのジャーナリストが書いた著作に、「フラット化する世界」というものがあります。
スタディーツアーの移動時間にこの本を読んで、ふと以下のようなことを思ったのです。



15世紀の終わり。一人の野心家が、巨万の富を求めて、大西洋に繰り出しました。

彼の名前はクリストファー・コロンブス。ジェノヴァ出身の航海士です。

彼が大西洋へ繰り出したワケ。それはアジアに存在するといわれた「黄金の島」ジパングの交易と、それによって生まれる莫大な利益を独占することにありました。

それまで、「平ら」な存在だと信じられてきた地球。
だから、東にあると信じられていたアジアへは、欧州大西沿岸諸国からは、アフリカ経由の東回りルートで向かうことが主流でした。

しかしコロンブスは逆でした。トスカネリの地球球体説を支持した彼は、地球は「丸い」ものと信じて、大西洋横断の西回りルートでアジアを目指したのです。

そして行きついたのがカリブ海に浮かぶグワナハニ島、通称サンサルバドル島です。

そこは決してインドではありませんでしたが、彼はこれをインドと考え、原住民をインディアンと名付けました。

そして彼は確信したのです。世界は丸いのだと。

そしていま僕もアジア周遊のスタディーツアー真っ最中です。

羽田空港から西へフライトすること数時間、僕はタイ王国はバンコクへ降り立ちました。

地球球体説が正しければ、僕はタイという「新世界」に行き着き、そこにはタイ人と呼ばれる人々がタイ式の生活を送っているはずです。

しかしながら僕が空港から出て目の当たりにしたのは、TOSHIBAやSONYといった日本企業の看板、そして道路に目をやればそこにあふれるのはトヨタ、三菱、マツダ、ホンダ・・・。

カオサン通りと呼ばれる宿場町へゆけば、そこは外国人で溢れ、店から流れる英米のロックミュージックやクラブミュージックをBGMに、HEINEKENを飲む生活。
何かが欲しくなればセブンイレブンがそこにあるし、小腹が空けばマクドナルドもサブウェイもそこにある。

そう、僕がタイだと思って行き着いた先は、まさに日本そのものだったのです。
地球が丸くて、ずっと東にいったらそこに新世界があるなんてことはいまやもうなくて、そこあったのは見慣れた光景にすぎなかったのです。

均質化する世界。

それを目前にして、トマス・フリードマンが感じたように、僕もこう感じました。

「ああ、世界って”フラット”だったんだ。」


文責:高田湧太郎
posted by S.A.L. at 03:03 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月13日

カオサン通りと3.11

タイのカオサン通りは眠ることを知らない。どのカフェやバーも朝まで営業を続け、クラブやライブハウスは遅くまで盛り上がっている。

周りは外国人ばかり、深夜徘徊、食欲をそそる出店のパッタイの匂い。そんな異国情緒に酔いしれていた深夜3時過ぎ、とあるオーストラリア人女性に声をかけられた。


彼女は随分と、酔っ払っていた。それでも英語力の乏しい自分たちのためにゆっくりと聞き取り易い英語で話してくれた。

ひとしきりたわいのない会話をしたあと、話は東日本大震災のことに変わる。日本と彼女のことについて語ってくれた。

日本が大好きなこと。日本に2回訪れたことがあること。彼女の親友が日本でサーフィンをしていること。

そしてその親友の友達が、3月11日に起きた地震による津波によって命を落としたことも語ってくれた。


震災発生直後に「Pray for Japan」という言葉が盛んに叫ばれた。日本を心配してくれる世界中の人々もその動きに呼応して、本当にたくさんの「祈り」が日本に届けられたのは今でも記憶に新しい。

そして昨晩カオサン通りで出会ったオーストラリア人の彼女も、日本の行く末を案じていた。


心が暖かくなると同時に、もっとしっかりしなくちゃ、と僕は思った。


震災を通して様々なことが変化し、既成の価値観の多くがぶち壊された。それは自分自身の肌で感じ、震災が巻き起こした色んなことに対して自分がどう関わって行くのかも考えた。

日本の復興は確実に進んでいる。それは2回のボランティア活動を通して感じることができた。それと同時に、辛抱強く復興のための活動を続けていかなくてはならないことも感じた。

僕たちは震災の当事者として、まだまだ関心を失ってはいけない。目を背けるには早すぎる。世界中の人々がまだ日本のことを気にかけてくれている。気負う必要は何もないけれど、それでももっと気を強く持たなければと。

そんなことを、一人の外国人との出会いを通して思ったりした。
posted by S.A.L. at 20:48 | Comment(0) | 2011夏-ユーラシア横断スタツア- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月12日

未来について思うこと

20年後に、あなたはどんな生活をしていると思いますか?



みなさんはこの文をみて、どんなことを思い浮かべましたか?

頭に思い浮かんだのは理想的で明るいイメージでしょうか?
それとも、そんな生活したくない!と思うような暗くてマイナスなイメージでしょうか。

私は現在研究会で、集合知を活かした未来共創、というものを研究しています。
漢字で書くとなんだか堅苦しいですが、簡単に言うと、twitterなどのSNSを使い、20年後のミライはどうなっているかということに関してアイデアを集めて、最終的には未来像として、何か一つの形にしようとしています。

人が想像できることは必ず人が実現できる

これはSFの父、ジュール・ヴェルヌの言葉です。

私が研究をしていて感じたのは、みなさんからいただくアイデアは明るく前向きなものが多い、ということです。もちろん私自身明るい未来をつくっていきたいし、人間が未来に大して理想や希望など、前向きな気持ちをもつのは普通のことかもしれません。

でも現実には地球温暖化、人口増加による食料問題や、日本だったら少子高齢社会など、誰も一人では解決できないような大きな問題が私たちを待ち受けています。

それでも人が明るい未来を思い描く事ができるのならば、ジュール・ヴェルヌが言う通り、それを実現することは可能だと私は思っています。


カンボジアでは30年前に熾烈な戦争が起きました。
私は2年前の夏にカンボジアを訪れましたが、「戦争」「貧困」そんなマイナスイメージを持っていた私は、首都プノンペンが想像以上に発展していたことに驚きました。
カンボジアは今でも「途上国」と言われていますが、それでも戦後から今までの発展はめざましいと思います。
このように発展できたのも、暗い時代においても、その時代を生き抜く人の未来への思いがあったからなのだと思っています。


s.a.l.filmsのドキュメンタリー映画「CROSS ROAD」では内戦時代から現代までを生き抜いた人々の考えや思いも映し出しています。
公式ホームページもありますので、是非ご覧ください。

s.a.l.films 「CROSS ROAD」
http://crossroad-salfilms.com/


国際局3年 もりえ
posted by S.A.L. at 22:56 | Comment(0) | お知らせ,イベント情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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