2011年07月28日

ひとりひとりにできること



数日後に迫った楽しい楽しい夏休みに思いを馳せつつ、
テストや課題に追われている現実に立ち向かう広報局1年矢口絵理です^^


先日、先輩方と訪れた震災ボランティアについて書きたいと思います。


――――――――


私は先週の土曜日、初めて震災ボランティアに参加しました。


震災後から、「何か自分にできることがしたい!」
とは思っていたものの、中々行動に移せませんでした。


先輩が震災ボランティアに行こうと呼びかけてくれたのをきっかけに、
被災地の現状を見て、自分のできることをしに行こう!
と思い、参加することを決めました。


23時に横浜を出発し、バスに揺られること8時間。
津波の被害が大きかった宮城県石巻市に到着しました。


内陸部の方は、コンビニエンスストアや飲食店なども復旧していました。
しかし、少し車を走らせたところにある沿岸部は、
震災から4ヶ月半経った今でも止まったままの信号や、
何段にも積み重ねられた車、取り壊されている途中の民家がありました。
自分の目で見てみても、これが本当に現実なんだ、
と理解するのに時間がかかりました。



私たちが行なったボランティア活動は、
民家の畑に津波によって流れてきた泥(といっても、時間が経って乾いていました)と、
その泥の上に生えてきた雑草を除去することでした。


ボランティアのスタッフさんが言うには、
「自分の家の畑に流されてきた泥は、いわば自分の家で出たゴミのようなもの。
行政は手を貸してくれないので、自分の家で片付けるしかないんだよ。」
とのこと。自分の家で片付けなければならないのだけれども、
あまりにも膨大すぎる。そこで、我々ボランティアの力が必要となるのです。



一日ボランティアをしてみて感じたことは、
人ひとりが一日で手伝えることは本当に限られていること。
自分の無力さを感じずにはいられませんでした。


でも、そんなひとりひとりの力が集まれば、大きな力になります。

今回のボランティア活動においても、
40人弱のひとりひとりの力が合わさって、ひとつのボランティア活動となりました。


被災地では、ひとりひとりの力が、まだまだ必要とされています。


震災関連のテレビ報道も減少し、被災地から離れた私たちの生活は、
「日常」に戻りつつあります。


しかし、目をそらしてはいけない、
忘れてはいけない現状が、東北の被災地にあります。
7月時点の避難者数は、未だ9万人にも及んでいます。


ボランティアに限らず、自分の住む町にいながらできる支援もあります。
今一度、ひとりひとりが「自分には何ができるか」
を考え、行動していくことが 被災地復興への道だと思います。



私は、ボランティア活動が被災地の方々に必要なくなる日まで、
被災地へ足を運び続けたいです。




広報局1年矢口絵理
posted by S.A.L. at 01:15 | Comment(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月24日

私を魅了する土地

じりじりと照り返す太陽。むっと、じめっとする空気。





私は今年もインドネシア・ジャカルタのカンポン―路地裏の住まい へ出かける。


舗装のされていないぼこぼこ道路と土埃を被った床の住まい。
私達が訪れるレンテンアグン町のカンポンは、開放的な家たちが建ち並び、人々はコミュニティーとしての
結束を強めている。
どこかノスタルジックな雰囲気を感じずにはいられない。

*

毎年、我が研究会では、ジャカルタのレンテンアグン町の○△隣組での調査を行なう。
我が研究会で以前、大変興味深い調査を行なっていたのをここで紹介したい。


「レンテンアグン町○△隣組におけるインフォーマルセクターの仕事に対する意識について」

インフォーマルセクターとは、大辞泉によると、
非公式部門。開発途上国にみられる経済活動において公式に記録されない経済部門のこと。
靴磨き・行商などといった職種から構成されている。

と記載されている。
要するに、定職についていない自営業者のようなものである。

靴磨きや屋台商、ゴミ収集人、洗濯委託業など、その職種は様々だ。


彼らは一定の収入がなく、不安定な生活を「強いられている」
私は、彼らは限られた資本所有の故に、インフォーマルセクターの仕事にしか従事する選択肢がない


と思っていた。

その以前、行なわれた調査によると、

     
           彼らは「選択出来ない」のではなく、自ら選んでいる




アンケート調査と追跡調査によって、データ採取がされた結果である。


自由な時間を確保出来るから、仕事に縛られたくないからと様々な理由が挙げられたのだが、
インドネシアのレンテンアグン町の居住するインフォーマルセクターの人たちは、
およそ9割、自らの意志でその仕事を選び、従事していた。

私にとって驚く結果であった。
もっといい家に住んで、いい家具や車を所有して、おいしい食事をしたい―


それが万人の願いとばかり勘違いしていた。

彼らの家々は
路地裏の、ぼこぼこ道路にひしめき合うに建てられた「おんぼろ」自宅だ。
寝床は薄汚い布の上、暑い夏を冷やす扇風機などない。
汚染された井戸水を汚れているとも知らずに生活用水として活用する。

とてもじゃないが、いい暮らしをしているとは言えない。

彼らはよりいい住まいよりも、カッコイイ最新のバイクを所有したいと考え、
より良い衣服を身にまとうよりも、最新型のテレビを欲しがる。


仕事の時間よりも、プライベートや宗教の時間を優先する。

お金で得る地位ではなく、宗教的社会権威地位の方が尊重される。


*


時代が変われば、価値観も変わる。

その時、同じ時間を共有して初めて感じる空気。


だから私は行く。何度も、同じ土地へ、その広がる異文化に魅了されて。



そこへは、対話が待っているのだから。






【文責:広報局4年 木本佳歩】
posted by S.A.L. at 23:01 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月21日

北鎌倉巡り

こんにちは。
広報局1年の立山蘭です。初めてのブログで少しドキドキです。


毎日が蒸し暑い中、
節電という言葉が余計に私たちを暑くしているように感じる。
このような中でみなさんはより涼しい場を求めてはいませんか?





自然の風にそそられながら、凉しむことができる場があるのです!
おととい17日に私は大学の授業の課題で北鎌倉を訪れました。

北鎌倉は外国人観光客やカップルも多く訪れる日本の風情あるところ。
駅周辺には寺院がたくさんあります。

その中で「明月院」のなかにあるすばらしい空間を紹介したいと思います。
http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/ameigetuin.html

それは、明月院の中にある本堂。縦長の和室であり、窓枠が丸くきりとられている。
そのまるい窓は月を思わせ、その先に美しい自然が見える。

窓が額縁の役目をして、それはまるで絵画の中にいるよう。
和室が筒抜けとなっており、縁側をはじめここはとても涼しい。
鳥や虫たちの声もこころを癒してくれる。



自然を横目にお昼寝をしたいな〜



そう、感じさせるすばらしい空間。
似たような空間が海外にもある!それは、「ガゼボ」
人は似たような空間を求めるもなんだと感じた。
海外に行く機会があれば、ぜひ異なる涼しさを感じたいと思う。

みなさんもこの夏休みに涼しいスポット探しをしてみてはいかがですか?
posted by S.A.L. at 23:49 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

北鎌倉巡り

こんにちは。 
毎日が蒸し暑い中、
節電という言葉が余計に私たちを暑くしているように感じる。
このような中でみなさんはより涼しい場を求めてはいませんか?

自然の風にそそられながら、凉しむことができる場があるのです!
おととい17日に私は大学の授業の課題で北鎌倉を訪れました。

北鎌倉は外国人観光客やカップルも多く訪れる日本の風情あるところ。
駅周辺には寺院がたくさんあります。

その中で「明月院」のなかにあるすばらしい空間を紹介したいと思います。
http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/ameigetuin.html

それは、明月院の中の本堂。縦長の和室であり、窓枠が丸くきりとられている。
そのまるい窓は月を思わせ、その先に美しい自然が見える。

窓が額縁の役目をして、それはまるで絵画の中にいるよう。
和室が筒抜けとなっており、縁側をはじめここはとても涼しい。
鳥や虫たちの声もこころを癒してくれる。

自然を横目にお昼寝をしたいな〜

そう、感じさせるすばらしい空間。
似たような空間が海外にもある!それは、「ガゼボ」
人は似たような空間を求めるもなんだと感じた。
海外に行く機会があれば、ぜひ異なる涼しさを感じたいと思う。

みなさんもこの夏休みに涼しいスポット探しをしてみませんか?
posted by S.A.L. at 23:36 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月18日

原点回帰

こんにちは!
広報局2年飯野僚子です。
2年生になって3ヶ月、やっと自然に「2年生の飯野です」と言えるようになりました!


さて今日は、以前出会った面白いプロダクトをみなさんに紹介したいと思います。

突然ですが、みなさんはスピーカーと聞くとどんな形を想像しますでしょうか?
四角い、どっしりした形以外のものを見たことはありますか?

実は「耳」の形をしたスピーカーがこの世には存在するのです。
それはイギリスの有名なメーカーであるB&W(バウワーズ&ウィルキンス)の「ノーチラス」という名のスピーカー。

ぐるぐると渦巻いていて、何のオブジェだ?と不思議に思ってしまう。
このスピーカーを見る誰もが今までのそれには感じられない生き物的なものを感じてしまうちょっと変わった形のスピーカーです。

でも他のスピーカーとの違いはその形だけではありません。
5年間もの時間をかけて研究開発された、レコーディングされたままの音楽を
完全に再現する「パーフェクトな」スピーカーなのです。

ではこのレコーディングされたままの音楽をどう完全に再現するのでしょうか。


その秘密はそのぐるぐるとした「耳」の形に隠されています。


人間の耳には蝸牛という器官が存在します。
ぐるぐると渦を巻いたカタツムリ状の器官で、これは人が音を聞く際に非常に重要な役割を果たします。
蝸牛の中には基底膜という膜があり、鼓膜からの振動が伝わると、この膜も振動します。
そしてその蝸牛がどの場所でどのくらい振動するのかによって音の周波数分析をし、中枢神経に情報を伝達するのです。


…そう、実はこのノーチラスというスピーカーは「耳」の形というより、
「耳の中の蝸牛」の構造を持ったスピーカーなのです。

「聞く」という行為を徹底的に考えてたどり着いた形。
蝸牛の構造をスピーカーにも採用することで、出来る限りクリアに音を伝達する。
機能がそのままデザインになった、とても興味深い例のひとつです。


私はこのスピーカーの秘密を知ったとき「原点回帰」という言葉を思い出しました。
でも、いつも使っているような意味とはちょっと違って、

「進化しつづけた結果、気付いたら原点回帰していた。」

こんなイメージで原点回帰を思い浮かべました。

新しさや性能を追究した結果、自然のかたち・古いかたちに戻るのはとても興味深いことですし、デザインにおいてだけではなくて私たちの普段の行動にも新しい考え方を与えてくれます。

もしかしたら、この世の中にある多くの事柄は「何をしたいのか、何でやっているのか」を深く追究したら驚く程シンプルで単純で美しいものになるかもしれない。

そんなことを考えさせられました。

たしかにこの世の中簡単にシンプルで美しく収まるものばかりではないですが、
無駄な装飾をそぎ落として本当の目的をしっかり軸にもつことはとても大切なことです。


大学生として色々なものに触れる私にとって、これはとても難しくて、でも何よりも大切なこと。
あと少しで夏休みも始まるので、この変な形のスピーカーから学んだことを胸に充実した時間を過ごしたいと思いました。







posted by S.A.L. at 23:14 | Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月15日

平和の実現

こんにちは、梅雨も明けて毎日本当に暑いですね!
熱中症などに気をつけて、毎日頑張っていきましょう!



さて、先日、大学でゲストスピーカーによる命について考える授業がありました。
その授業では障害を持った障害者の方々の日々の様子を映像を通じて見る事ができました。
そして授業が終わる直前、ゲストスピーカーの方が私たちに言いました。


「私は彼らのような重度の障害を抱えた障害者の方々が生きていても仕方が無いのでは、と考えたことがある」と。


その上で、彼は私たちに「命」についてどう考えるか、問いかけてきました。


「命」を考える。


簡単そうに思えて、とても難しい宿題だと、私は感じました。
「命は大切だよ」。そんなことは、簡単に言えます。
でも「命」の大切さを、まだ18年しか生きていない、まだ社会で生きる色々な人々との交流も少ない私のような大学生が、説いて良いものなのか。
そもそも「命」の大切さなんて、私には分かっていないのではないか。
そう感じました。




しかしここ最近、インターネット上の書き込みを見て思った事があります。


悩み、苦しみ抜いた自殺者に対し、「ただの甘え。死にたいならさっさと死ね」。
戦後の日本をここまで成長させてくれた高齢者に対し、「税金の無駄。早く死ね」。




そんな心ない多くの書き込みを見て、少しだけ答えが見えた気がしました。


「死んだっていい命」。


そんな「命」を生み出してしまう思考は、とても危険な考え方。
「死んでもいい命」をよしとすることは、人の命をないがしろにすること。
それは「命」が消えたってどうでも良い、自分には関係ない、と思うこと。

そんな考えこそが、そんな考えを少しでも持った人間がいるから、格差、戦争、環境破壊、民族紛争などの問題が解決されずに、今も多くの人々の命を脅かしている。

だから障害をもった人たち、自殺を考える人たち、あるいは高齢者の「命」をないがしろにする、そんな思いやりに欠けた考えも、私たちの生活を脅かす社会問題や国際問題を生み出す一つの「きっかけ」に繋がるのではないか。


「この世に消えてもいい命などは絶対にあってはならない。皆が幸せに生きていける社会を形成していこう。」

周りの人や知らない人のことを想い生きて行くこと。
今ある「命」、未来の「命」を大切にすること。
それが、平和を実現していく上で、大切なことではないのか。

そんな風に感じました。

でも私がそんな風に生きているとは思えません。
人を思いやり、利他的に生きていける人間になりたい、そう考えています。

【文責:広報局1年 山口さくら】
posted by S.A.L. at 16:44 | Comment(4) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月12日

なにを見て、なにを感じるのか。

夏休みを目前に、まさに夏!と言わんばかりの鋭い日差しとうだるような暑さが連日続きます。
ついこの前まで梅雨だったのに、季節の変わりようは何度経験しても早いものです。


夏休み、と聞くと誰もがわくわくせずにはいられないはず。
特に大学生の夏休みは、長い間お休みできる最後のチャンスかもしれません。
そんな長期の休みを使って旅行に行く人も多いと思います。


S.A.L.のメンバーも、毎年夏休みはスタディツアーへ出発します。
今年はというと、沢山の新入生を迎えたこともあり、例年よりも多くの国へと足を延ばします。
カンボジア、インド、ヨルダンそしてイスラエルと文字通り世界中へと散らばる予定です。

***

そこで今日は、「なぜスタツアに行くのか」ということについて私なりに考えてみたいと思います。


なぜスタツアに行くのか。
こう聞かれたらまず思い浮かぶのは、「自分の目で、耳で、肌で、感じたいから」という答えです。


でももう一歩踏み込んで考えてみると、なぜ自分で体験することが大切なのでしょうか。


現地に赴くことは、何事にもかえられない大切なことだと思います。
知識だけの理解は自己満足に陥りやすく、自分の目で見て初めて理解できることは多いからです。


でも、なにのためにそこへ行くのかという目的意識を持たずに行くよりも
『○×をするため、見るためにそこへ行く』
という自分なりの問題意識を持っていった方が遥かに得られることが多いと思うのです。


スタツアではなにかしら目的を持って旅に出ます。
目的を達成するため身を以て体験すること、これはつまり自分の問題意識を解決することにつながる。
ここにスタツアの意義があるように思います。

***

実際去年インドを訪れたとき、私が出会った少女が教えてくれたこと。

「金銭的に豊かになっていくことが自分の幸せではない。」

インドという発展途上の国にいてもそう思うことがあるのかとはっとさせられました。
幸せとはその人がいる環境で決まるものなのか、という私の問題意識を解決してくれた彼女の言葉。
その言葉は私の胸にがつんと響きました。

なにを幸せと思うのかは、環境ではなく個人が決めるもの。

インドに赴いたからこそ、彼女の言葉を素直に受け入れ、こう理解することが出来たように思います。

***

なにを見て、なにを感じるのか。
それは人としての成長につながります。

経験を自分の栄養にして、大きくそして豊かに成長していきたい。
そしていつかそのお礼として、経験を社会に還元していきたいという思いを胸に私は今年の夏を迎えます。

***

今年も各スタツア参加メンバーが、現地からブログを更新予定です。
世界各国からのいろいろなストーリー、ぜひお楽しみに!

【広報局3年 久保七生】
posted by S.A.L. at 01:26 | Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月09日

同じ話



同じ話を何回もされると
「前にその話聞いたよ」とか
「あーそれでああなったんでしょ」とか
言ってしまうこと、思ってしまうこと、よくありますよね。



私の祖母は戦時中に生まれ、小学校高学年のころ戦争が終わりました。

「服は一年に一度、元旦の日にしか買ってもらえなかったんだよ。」
「教科書は全部、先輩のお古を使ったんだよ。」
「食べるものが無くて、学校にお弁当を持っていけなかったんだよ。」

祖母は度々、私に戦時中の生活を話してくれました。


その話を聞くたびに私は、
「またこの話か‥」と心の中で思ってしまっていました。


「またこの話か‥」と思った時点で私たちは、右から左に受け流します。聞いているフリをしているだけ。



なぜ何回も同じことを話すのでしょうか。


それは、その体験や事件が話者にとって、“衝撃的なこと、忘れられないこと、大切なこと”だから。

そして時にその体験談は、今を生きる私たちにとって必要なものです。


同じ話をされても、常に疑問や関心を持ち続け、違う視点で見ることができれば
より理解が深まったり、新しい発見ができるのではないでしょうか。


3月11日に起きた東日本大地震についても、
度重なるテレビ報道で、半分聞き流している自分がいました。


「聞き流す」という行為で思考をストップさせず、もう一度考えてみる。

私自身、このことを常に意識していきたいです^^


広報局1年 矢口絵理

posted by S.A.L. at 18:16 | Comment(3) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月07日

HOTな話。



いつの間にか梅雨も終わり、今年も夏がやってきましたね!



毎日暑いですが、みなさんいかがおすごしですか?







まだ7月上旬だというのに最高気温が30度を越える日が続いていますね。
北海道でも、30度を越える暑さです。
また、去年の日本の夏は113年間の観測史上、最も暑かったようです。
あれもこれも、「地球温暖化」のせいなのでしょうか?









しかし最近、



「地球温暖化は嘘だった!?」
「科学的数値が偽造されていた!」
「これから地球は逆に、寒冷期に入る」



といった、今までの議論を覆すような意見をいろいろなところで耳にします。




そんな話を聞くと、

「なんだ、騙されてたのか」
「なら、そんなに気にしなくてもいいんだ」

という気になってしまいます。







常識を覆す話は面白いので、

「温暖化って別に大丈夫なんでしょ」

というように、友達との話のネタにもなっているくらいです。











私も、今日の朝まで、そんな一人でした。











しかし、今日の生物の講義を聞いて
緩んでいた気持ちをまた叩き直されることになります。







「今、『温暖化は嘘だった論』が日本で流行っているが、あんなの大嘘。
地球温暖化は進んでいるし、このまま炭素ガスを出し続ければ長期的に見て、
確実に海面上昇を引き起こして、陸地はどんどん海に沈むことになる。」





と、生物の教授は言うのです。







科学的な根拠や議論については、ここでは触れませんが、
どちらの意見にも世に示せるだけの根拠があるのだと思います。
統計の取り方の違いや予測数値の出し方の違いで全く異なる意見になるのでしょう。















さて、ここで二次的に議論に上がるのが、

「エネルギー問題」です。





地球温暖化対策で、クリーンエネルギーとして
開発を進められてきた原子力発電が、
今回のフクシマの事故で、大きく見直されています。
管総理大臣は、日本の原発を全部停止するというような発言をしました。



しかし、地球温暖化が大変だという科学者たちからすれば、
火力発電に戻ることは絶対に考えられません。
今はとりあえず原発に頼って、
次のエネルギー開発を進めるしかないという人もいます。



一方、原発反対派は、今すぐに原発はやめるべきだと主張します。
クリーンどころか、リスクが高すぎるという意見は、確かに否めません。












もちろん事態はもっと複雑ですが、簡潔に言えば、

 「地球温暖化」vs「原発」 

のリスク対立になっているのです。









ここで、物事には必ずいくつもの見方があり、
何か意見があれば絶対に反対の意見がある、
ということを改めて感じさせられます。















「地球温暖化」と「原発」。













今、世界が抱えている大きな問題です。



そして、節電が叫ばれている今年の夏、
どちらの問題も私たちに直接影響を与えていることが
身に染みてわかります。















この夏、計画停電で、真っ暗で暑くて何もできない夜なんかに、
自分の身近な問題としてちょっと考えてみるといいかもしれませんね。











文責:広報1年 若尾真実

posted by S.A.L. at 01:21 | Comment(4) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月01日

自分の言葉

『ミツバチの羽音と地球の回転』をみた。山口県のちいさな離島「祝島」で、上関原子力発電所の新設に反対する人々を写したドキュメンタリー映画だ。劇中「わしらの生活がかかってるんじゃ」「わしらの23年間を、返せ」と全力で叫んでいるおじいちゃんおばあちゃんの姿を見て、「ぼくには原発のどうこうを語る権利なんてないんだな」と自分を責めた。なぜならぼくは、遠く離れた原子力発電所で生み出された電気をずっと存分に使いながら、3月12日の水素爆発でちょっとばかり身震いをしたに過ぎないからだ。おじいちゃんおばあちゃんのように、「自分自身の言葉」でモノを言うことなんてできないからだ。ぼくは自分に脅威が及ばなければいいと心のどこかで思っているだろうし、3月12日までは日本のどこにいくつ原子力発電所があるかなんて気にしたことすらなかった。これは都市生活者の原罪なのか。

*

同じ日に、東京都写真美術館でやっていた『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』をみた。プラハの春の終盤、ワルシャワ条約機構群がプラハを占領した最初の7日間の様子を撮影したジョセフ・クーデルカの写真を集めた素晴らしい展示だ。モノクロで繊細な美しい写真からひとびとの悲しみや心持ちがはっきりと伝わってくる。ある写真の中のプラハ市民は拳を高く手にあげながら、ソ連軍の戦車に向かって叫び声をあげていた。写真だから何も聞こえないはずなのに、何かが聞こえてくる。ああ、この声も祝島のおじいちゃんおばあちゃんと同じような「自分の言葉」なんだな、と思った。本気で叫んだ、本音の言葉だと。

*

そんな『ミツバチの羽音と地球の回転』と『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』は両方とも、ひとびとの無力さとぼく自身の傍観者たる立場を痛感させられるものだった。どんなにひとびとが立ち上がって自分の言葉で叫んでも、上関原子力発電所は建設が進み、プラハの春は終わった。そしてぼくはいつもそんな状況の傍観者でしかなかった。自分の言葉を持たないゆえに、だ。でもぼくは、いつかそんな傍観者たる自分を捨て、自分の言葉で問題を語ることでひとびとの支えになりたいと強く感じている。ひとびとの言葉が決して無力でないことを、ひとびとの言葉が世界を変えていくことを、自分の言葉で証明したい。

*

だからぼくは現場に行く。見て・聞いて・感じることで、単なるハッタリでも机上の空論でもない自分の「言葉」を導きだすことができると考えているからだ。現場に行って問題を自分の経験に昇華し、それを言葉にする。そして、自分の言葉を腹の底から「叫ぶ」。自分で動かない限り、自分の言葉を持つことなんてできないのだ。「書を捨てよ町へ出よう」という言葉にあるとおり、他人の言葉を読み耽るだけではなく、自分で自分の言葉を創りだそう。そのために、動き出そう。そうやってぼくは、少し重い腰の自分にいつも言い聞かせる。

*

この夏、ぼくは祝島に行く。原子力発電所問題を、少しでも自分の言葉にするために。「権利がない」で終わらせないために。いつかその言葉で、苦しむひとびとを助けるために。


文責:はたちこうた


●参考
ミツバチの羽音と地球の回転 http://888earth.net/index.html
ジョセフ・クーデルカ プラハ1968 http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-1353.html
posted by kota at 04:14 | Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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