2011年01月27日

日常の出来事


みなさん、テスト勉強お疲れ様です!
広報の山田茜です。
テストが終われば大学生の皆さんはすぐ春休みですね。
あと少し、頑張りましょう!



今日私はテストを無事全て終えたのですが、
実は最終日の今日が一番の山場でした。
昨日のテストの後、
一刻も早く帰り、勉強をしなければと思い、電車に駆け込みました。
満員電車の中でゆられながら電車に乗っていたとき、
急に電車が停止しました。


5分後、アナウンスも何もなく停止したまま。


私は早く帰りたいという気持ちと疲れた気持ちで
正直、イライラしていました。
何かあったのかと少しザワザワしてきたころ。
車内のアナウンスが流れました。


「先ほど起こりました人身事故の影響によって、ただいま上下線ともに運行を中止しております。運転再開のめどは立っておりません。またこの影響で駅に人があふれている状態で、電車が到着できない状況です。お客様には大変ご迷惑をおかけしております。申し訳ございません。」


人身事故は最近では特別珍しくないものになってきたせいか、
周りには溜息をする人、「えー」と困った顔をする人。
電話をかけて状況を誰かに連絡しようとする人、急ぎ足で電車を降りる人。
私も、帰りが遅くなる事、勉強出来る時間が減ってしまう事に対する不安、焦りで頭の中がいっぱいでした。
結局電車から降りて違う沿線で帰る事になり、いつもより倍の時間をかけて帰宅しました。


後からその事件が昨日のニュースになっている事を知りました。
「男性が電車にはねられ死亡。2万人の足に影響。」
その記事を見たとき初めて事故にあった男性の事を考えました。


思い返してみれば、
私が、電車で人身事故が起きた時にいつも心配してしまうのが、第一に自分の事。
事故によって怪我をした人に対する心配の気持ちなど、かけらも持つ事ができていませんでした。
それどころか、「なんでこんな時に、もっと早く帰ればよかった」なんて考えてしまう自分がいます。



駅の改札には説明を求める人たちがごった返し、駅員の人々が説明を繰り返していました。
その中で一人の男性が声をあげて駅員に怒鳴りつけていました。



「お前達には俺達に対する謝罪の気持ちもないのか。」


ときどきtwitterやmixiのつぶやきでこんなものも目にします。
「人身事故、さいあく」


誰も悪いわけじゃない。ホームに誤って人が入り、電車が誤って轢いてしまった。
彼らは駅員はいつも通り、安全を確認しながら、きちんとした業務をこなしていたはずです。
謝らなければいけないのは誰でもない。



そして第一にそして考えるべき事は自分たちの事ではない。
たとえ一瞬でもいい、怪我をしてしまった人への心配の気持ちや無事を願う思いではないでしょうか。



全ての、ひとつひとつの事件や事故に、それによる被害者の人ひとりひとりに、という訳ではありません。
けれど、私達のすぐ近くで失われる「命」について考える事が出来ずに、異国の人々の「命」を考えることができるのでしょうか。
いつだって、「命」の価値は同じ。
「それとこれとは話が違う」なんて言い始めていたら、きりがないですよね。


世界へ視野を広げる前に、まずは身近な、日常生活から。
「命」の価値は、いつでも、誰でも、どこでも、同じ。
それを常に考えていたいと感じています。
誰かのtwitterのつぶやきがいつか、
「人身事故、さいあく」という言葉から
「人身事故、しんぱい」という言葉になりますように。
posted by S.A.L. at 01:15 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

勉強、それはすなわち愛。


こんにちは。今日ブログ担当を務めます代表の重田竣平です。
各大学とも、目下試験シーズンで各所から大学生の悲鳴が聞こえてきますね。
僕も絶賛スクリームなう、です。



我がSALは向学心の高いメンバー揃いですが、それでもやはり試験への畏怖はなかなか拭い去れません。レジュメや資料の量に圧倒される最中に、「俺、なんで勉強してるの?なんの意味があるの?」のような哲学的な思考に耽ることもしばしば。

そこで今日は「なぜ勉強するのか?」ということを僕なりに考えてみたいと思います。
その理由は多々あると思いますが、あえてひとつあげるとするならば、それは

「私たちのもつ価値が、相対的であることを自覚するため」

ということに尽きると思います。



僕ははっきり言って自分の学ぶ政治学に関して言えば、試験のために覚えた膨大な知識は、試験終了とともに水平線の向こう側に発射する気概で勉強しています。それは政治学の学習において抽出すべき最も重要なエッセンスは、知識ではなく、「相対性の自覚」にあるからです。

殊に政治学は、法曹や経営者、その他諸々の研究員になるためのようなある種職業訓練的な学習とは性質を異にして、将来に生きてくるような知識を吸収していないことが多いと思います。それでも大学4年間で学ぶ意義を見出さない限りは、私が今ここで学ぶ意味が問われてしまいます。

その学ぶ意味が「相対性の自覚」にあると僕は考えています。



「相対性の自覚」とは何か?

それはつまり、今自分の内面世界ないし自分が置かれている世界を支配しているあらゆる価値前提が、所与のものでなく、膨大の議論の上にある「勝者」たる価値であることを感じるということです。私の持っている価値、理論はワン・ベスト・ウェイではなく、ワン・オブ・ザ・ベター・ウェイズに過ぎない、ということです。


政治学の試験勉強の主な作業行程は、あらゆる学者のあらゆるロジックの要点を整理し、まとめて、共通点や相違点、論点を統括していくことにあります。
その中で繰り返し私たちに向けられる強烈なメッセージこそが、相対性の自覚です。


私たちの生活を規律する法律、行政の志向・ルール、経済政策、生活風俗、民主主義それ自体が、あらゆる価値をめぐる議論の上にあるものであること。

これは当たり前のことに思えますが、これらが絶対的でなく、相対的であることを肌感覚で認識するためには、やはり実例を学ぶことで「複眼的思考」を養っていく必要があります。

ではこの相対性の自覚、というものが、どのように自らの人生観や社会観に生きてくるのかといえば、これはもちろん国際協力を考える上でも最も大事な視座の一つとしてとらえることが可能です。
国際協力が実行過程に移る際、その目的と手段、手段の正当性を担保する現場のニーズないしロジック、支援する側のロジック、これらは可能な限り統合されるべきであって、この統合の過程こそが「国際協力社会」の躍動感の源泉であるように思います。

しかしこの過程は、各々が自らのロジックをワン・ベスト・ウェイと自負するような人間によって行われるようでは、スムーズな施行は甚だ困難であると思います。

自分のもっている価値が、所与でないこと、絶対的でないことを理解する、ということの大切さ。心を広くもって、他の価値を許容していく過程。「当たり前」を破壊する。

繰り返しになりますが、これは単純であって、かつ案外獲得の難しいことでもあります。
また、逆説的ではありますが、これは机上の勉強のみで得られることではないということも明らかです。それでも、大学における能動的な学習の過程には、こんな一面があるんじゃないかな、と僕は思います。


これは地域研究や政治思想をほんの少しかじった僕の主観ですし、一例にすぎませんが。。。




議論の収拾をつけるために、太宰治のこんな言葉を載せておきます。


「勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。
覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。」

相対性の自覚、というのは要するに「カルチベート」という言葉に置き換えても差し支えないのでしょうか?

大学受験シーズン、大学は期末試験シーズンで辛い辛いと嘆きがちですが、ふと立ち返ってこんなことを考えてみると、案外やる気が盛り返してくるかもしれませんね。






SALのブログを書く機会はなかなか回ってこないので、本当はもっといろいろ書きたかったのですが、そろそろ勉強に帰ることにします。。。

それでは、人生の楽園:大学の長期休暇に向かって頑張っていきましょう!



P.S.
僕は母校の高校生たちを引率して、カンボジアにいってきます!
もう4度目になりますが、それでもまだまだ楽しみです。

[代表:重田竣平]



posted by S.A.L. at 21:22 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月17日

入試と社会と

広報局の松本です。
昨日今日と、センター試験がありましたね。受験生のみなさんお疲れさまでした。

とか話題にしつつ実は、僕はセンター試験を受けたことがありません。高校からの内部進学で、そのまま大学にあがりました。
なので、大学受験の雰囲気は今までよくわからなかったのですが、昨日からツイッターにいる人たちの間でセンターの話題が盛り上がっているのを見て、やっぱりこの時期の一大イベントなんだなあと暢気に考えたりしていました。

試験直前に不安そうな受験生がいたり、それを励ます大学生がいたり、【こんなセンター試験は嫌だ】の大喜利ツイートが大量に流れてきたり、お祭りのように一体感のある時間ですね。



ところで、大学受験の制度は、国によって結構違いがあります。
政治的・経済的な要因以外にも、各国の歴史事情や国柄によって差異が生まれるらしく、色々比較してみると面白いです。


僕は今、たまたま大学でフランスの中等教育・大学入試制度を扱っているんですが、フランスも日本とはまた違った入試制度を持っています。
フランスの最大の特徴は、哲学が入試科目に入っていることです。
それも、理系文系関係なく受験者全員が筆記・口頭の両方で哲学の試験を受ける制度なんです。あまり想像できませんよね。
自由や革命などの思想、文学や芸術などの伝統的な文化が根付くフランスならでは、という感じもします。


もう一つ例をあげると、僕が去年スタディツアーで訪れたカンボジアの入試事情もなかなか面白いものでした。
プノンペン大学の学生さんに聞いた話ですが、高校を卒業してから数ヶ月ほど受験勉強の期間があり、その間に勉強をするのだとか。また、プノンペンではほとんどの学生が、大学を2つ掛け持ちするそうです。話を聞いた学生さんは、午前は語学の大学、午後は法律の大学に通っていました。
プノンペンには大学が集中していて、入試自体はそこまで激しい競争ではないのだとか。ただ、就職は厳しい実力主義で行われていて、とにかく外国語の修得が重要なようです。海外の企業に勤めたいという学生も多いそうです。


他の国の入試事情を調べた後に、改めて日本はどうなのかを考えてみると面白い発見があるかもしれません。
なんとなく受け入れてしまっている、というよりは受け入れざるを得ないように感じられる受験制度ですが、日本の社会の特徴を反映している気がします。

ホットな話題で言えば、就活や就職難の問題がありますね。
景気や社会情勢から教育の問題は切り離せません。鶏と卵の問題のようにお互いに影響しあっているので、何が原因で良くなったり悪くなったりするのかを一概に言うことができません。

その困難さをより身近な視点で考えると、その問題を語る人もその問題の中に位置づけられてしまうという、避けられない構造にも原因があるんだと思います。
たとえば、学歴のある人が「学歴なんて関係ない」と言うのは云々…というように。

個人が考えて何かが解決されるほど小さな問題ではないんですが、どこに問題があるのかを理解しようとするだけで無駄な衝突を避けられることも多いのかな、と思います。


個人的には、社会と就職と教育と入試の関わり合いについてじっくり考えられるのは、大学にいる間だけのような気がします。
就職が決まって教育段階の外に出てしまえば、それはもう過去の悩みになってしまうんじゃないかな、とか。
自分の仕事に必死に取り組んでいる社会人の方々に、企業と教育の関係を反省してみませんか、というのもなかなか難しい話です。

大学生という、教育制度と社会の狭間にいる時期だからこそじっくり考えられる問題なんじゃないかと思うんです。

自分がいま居る場所の複雑さを改めて感じつつ、センター試験の話題に沸くツイッターを眺めながら、そんなことを考えました。
posted by S.A.L. at 02:03 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月12日

一年越しの思い

こんにちは。お久しぶりです!広報局3年深瀬詩織です。
SALが2年生主体となってから早2ヶ月経ち、最近はスーツを着て就職活動の日々を送っています。

共に時間の流れはとても早くて、私が昨年の3月にインドに渡航してから早くも一年が経とうとしています。

インドで更新したブログにはインドに来て考えたこと、感じたことが自分の中でまとまったらブログでアップすると書いたのですが、なかなかまとまらず、かつ深く考える機会もなくここまで来てしまいました。

なので、今回のブログでは1年越しで私がインドに行って考えたことを綴ってみたいと思います。

***
私がインドに行きたいと思った理由・・・

国際協力に携わる立場として自分の目で現地を見てみたかった、という思い。

そして、

インドに行ったら自分の中で何かが大きく変わる、というちょっと型にはまった発想。

実際私は自分の中で何かが大きく変わることを心の底で期待していたと思います。

とりあえず行きたいし行ってみよう。という安易な気持ちもありました。

しかし、インドに行って気付かされたのは意外にも「何かが大きく変わる」というよりは「身近なありがたさ」であったのではないか、と思っています。

家族のありがたさ。友達のありがたさ。健康のありがたさ。

本当は日頃から感謝するべきことなのに、当たり前のように当たり前の生活を送っていると忘れがちな感情。
身近だからこそ感謝することが難しい「ありがたさ」に、改めて気付くことができたのではないかと思います。


***
ただそれだけではなくて・・・

もちろんインドに行って、割り切れない思いをすることはたくさんありました。

大きな空港の側ではやせ細ったおばあさんがお金を求めて手を伸ばし、車が止まれば物売りの子どもたちが、車内の私たちに買って買ってと訴えかける。
町の中の格差に愕然とし、天災の被害を受け笑顔を失った子どもにも出会いました。

これらの出来事は私の心を震わせ、なんとかしたいという気持ちに反して、その場で何もすることができない自分の不甲斐なさも感じました。



ただ、ひとつ思うのは、身近な人のありがたさを感じられない人が国際協力だなんて、おこがましいなっていうこと。

もちろん国際協力ってすごく重要なことだけど、遠くを見るあまり近くを怠ってしまうことがないように・・・・・・そういう風に私は思います。
この気持ちを忘れずに自分を戒めながら、これからも国際問題に対して貢献していきたいと思っています。
posted by S.A.L. at 01:30 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月07日

理想のイベント

夜遅くにこんばんは!ついでに明けましておめでとうございます!
2011年が幕を明け、僕の学校も今日から授業が始まりました。



冬休み中はSALも会議がなくて活動が滞っていましたが、
8日の会議を皮切りにSALもスタートしていきます。


本年も学生団体SALをよろしくお願いします!

*
さて僕はSALでイベント局に所属し、イベントの企画・運営等をメインに活動しているのですが、
みなさんは学生団体のイベントについてどのようにお考えですか?



イベントと一口にいっても、様々な種類のイベントがあります。



例えば、いたって普通の(内容は国際問題と一切関係のない)クラブイベントを開催し、
そこで得た収益を支援先に送り病院を建てましょう、というイベント。


例えば、学生の大運動会を開催して参加者から徴収した参加費を
バングラディシュのストリートチルドレンを支援する団体に寄付するというベント。


例えば、留学生との交流を図るクリスマパーティーを開いて、
そこで得た参加費でネパールに本を送るというイベント。



これらのイベントは実際に学生団体によって行われたイベントです。
本当に様々ですね。では学生団体SALが目指すイベントとはどういったものでしょうか?



過去に開催されたLIVE&PIECE1st/2ndやLAUGH&PEACEは、
楽しみながら国際問題を伝えることに重きを置き、
受け手の人たちが「楽しい」をきっかけとして
自分から「知りたい」と思ってもらえるようなイベントにすることを心がけました。



その3回のイベントの総来場者数は1000人近くに及びます。
結果としてそれだけの人数に国際問題を啓発できたというのは誇れることだと思います。



しかし、イベントを終えた後に僕は十分な満足感は得られませんでした。
何かが決定的に足りなかった気がしました。
それはきっと「伝える」ことに関して本気になりきれていなかったからです。
イベントを開催するということが先行して、肝心の【伝えたい想い】が疎かでした。



一番最初の根底に【伝えたい想い】があって、
それについて深くインプットし、
その想いのアウトプットの場としてイベントを選択する流れが本来あるべき姿です。



もちろん様々な障害があり、理想通りにイベントを運営をすることはとても困難です。
しかし、理想の形式でイベントを運営しようと努力する余地はいくらでもあります。



過去の反省を生かしつつ、これからは【伝えたい想い】を大切にしたイベントを考えられるように活動していきたいと思います。ありがとうございました。

イベント局 川又
posted by S.A.L. at 02:20 | Comment(0) | お知らせ,イベント情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月03日

あけましておめでとうございます。

クリスマスが終わって、さらに無事ぼくたちは新年を迎えました。明けましておめでとうございます。

今年もなにとぞ、学生団体S.A.L.をよろしくお願い致します。

*

さて。

世界中で新年のリレーが行われていたさなか、ぼくたちはお祭り気分でテレビを見たり、おみくじを引いたり、お節を食べたりしていました。

新しい1年のはじまりを平和に迎えられて、みんな笑顔になりながら、街中が除夜の鐘に包まれる元旦。ぼくは大好きです。

でも世界中の人たちみんなが本当にそうやって平和に、新年を迎えられたかと言うとそんなことはないですよね。戦乱のさなかに新年を迎えた人も、飢餓に苦しみながら新年を迎えた人も、もしかしたら新年を迎える少し前に何らかの理由で命を絶たれた人もいるはずです。

ぼくたちは常にそういうことを心のどこかで意識なくちゃいけないんだなあ、なんて思いながら、ぼくは新年を迎えました。

*

かのジョン・レノンも同じようなことを言っていました。世界中に常に苦しんでいる人たちがいることを、「平和」が世界中において「普通」ではないことを、しっかりと意識して考えていくべきなんだよ、と。そしてそうすれば、世界はきっと平和になるはずだ、と。

そんなジョン・レノンの想いが込められている名曲があります。クリスマス・シーズンには毎年街中で流れている、誰でも聞いたことがあるような名曲。

「Happy Xmas (War is over)」です。

ジョン・レノンは妻のオノ・ヨーコと一緒にこの曲を書いたとき、「永遠のクリスマス・ソングをつくろう」と思ったといいます。

永遠のクリスマス・ソングをつくって、そのなかに「世界のことを考えてもらうような」要素を入れればいい。そうすれば、その意思は永遠に受け継げられて、いつかは世界中の人達が考える世の中になるだろう。

そんな考えのもとに書かれた曲が、このHappy X masなんです。

Happy Xmasの歌詞をよく読んでみれば、ジョンとヨーコのメッセージはしっかりと伝わってきます。ちょっぴり長いけれども、ここに全文掲載するので、動画と一緒に読みながら聞いてみてください。

*



そう、今日はクリスマス
そして何を君はした?
一年が終わり
そして新しい年が今、始まった
そして今日はクリスマス
楽しんでるといいな
身近にいる人も敬愛する人も
老いた人も若い人も皆
心からメリー・クリスマス
そしてハッピー・ニュー・イヤー
願おうよ 良い年である事を
不安なんてない年をさ
そして今日はクリスマス  (War is over)
弱い人も強い人も  (If you want it)
金持ちも貧しき人も  (War is over)
世界はとても間違ってる  (Now)
そして今日はクリスマス  (War is over)
黒い人も白い人も  (If you want it)
黄色い人も赤い人も  (War is over)
やめようよ あらゆる争いを  (Now)
心からメリー・クリスマス
そしてハッピー・ニュー・イヤー
願おうよ 良い年である事を
不安なんてない年をさ
そう、今日はクリスマス  (War is over)
そして何を僕らはした?  (If you want it)
一年が終わり  (War is over)
そして新しい年が今、始まった  (Now)
そしてハッピー・クリスマス  (War is over)
楽しんでるといいな  (If you want it)
身近な人も敬愛する人も  (War is over)
老いた人も若い人も皆  (Now)
心からメリー・クリスマス
そしてハッピー・ニュー・イヤー
願おうよ 良い年である事を
不安なんてない年をさ
戦争は終わるさ
みんなが望むと
戦争は終わるさ
もう
(Happy Xmas!)

*

動画の最後に「an eye for an eye will make us all blind」というガンディーの言葉が引用されています。これは、「目には目を、では世界中の人はいつか盲目になってしまう」という意味。報復や恨みの繰り返しじゃ、いつか世界はダメになってしまうんだよという意味。

ジョンはこの言葉を動画の最後に引用することで、世界中の人達がより「考えて、行動する」ことを祈っているのではないでしょうか。

*

世界中の人達がみんな平等に、そして平和にクリスマスと新年を迎えることができるように。そしてそういう世界のことを、ぼくたちがしっかり考えていくように。

この素敵なクリスマス・ソングに込められた意思をしっかりと受け止めて、この2011年を過ごしていけば、もしかしたら世界は少しだけ変わるかもしれません。

夢ものがたりかもしれないけれども、本当に、本気で。

ハッピー・ニューイヤー。

文責:S.A.L.創設者 はたちこうた
posted by S.A.L. at 21:40 | Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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