2010年07月25日

わたしの思う世界をみる視点

1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故。

私にとってはまだ生まれる前の出来事であり、実体験としてそれがどのくらい悲惨なものだったか、当時の状況は想像の世界でしかない。

それでも、史上最悪の原発事故であるという認識は私を含め、多くの人が持ち合わせているのではないのだろうか?
また、「知ってるけど、遠い国の話、自分には関係ないよ−!」というように、自分とひきつけて考える機会そのものがないため、なんとなく視野の狭い考え方をしてしまったり、ということも当然なのかもしれない。

今回私がこのブログで伝えたいことは、物事には表面と裏面があること、つまり物事を見る時に多面的な視点を持たなければならない、ということである。

話を戻して、チェルノブイリの原発事故で被爆した地域は放射能汚染の濃度が非常に高かった。そのため事故後、立ち入り禁止区間として、地域への人の出入りを禁じた。つまり封印、である。

そして事故後、その封印され廃墟と化した跡地には約800万トンの放射能を帯びた金属が放置されていたという。

だが、しかし現在は約200万トンしか残っていないということだ。

4分の3の金属はどこへ消えたのだろうか?


要するに、立ち入り禁止区間にこっそり入り込み、持ち出すというケースがあとを絶たない、ということだ。

『金属はカネになる。』
これが消えた金属の所以であり、人々は金属売ってお金を得るために危険を冒して禁止区域に入っていくのである。

そして、違法取引された放射性金属は、ロシアや中国に密輸され、再び加工されて全世界に流通しているものと見られる。


原発事故の悲劇は24年たった今でも、終わりを告げることなく、むしろ再び悲劇が繰り返されつつあるともいえる。そして今回は全く目に見えない、誰もが予期しないかたちで・・・・・・。

グローバル化されたこの時代、世界はかならずどこかでつながっていて他国の影響を受けたり与えたりすることまで容易になっている。

日本で買ったノートを引き換えにマングローブが破壊されていたり、はたまた中国で排出された硫黄化合物が大気や海洋を通じて日本まで流れてきたり、しかしそれを中国が排出することで日本にいる私たちが洋服を安く買うことができていたり・・・・・。
また、過酷な児童労働のもと、私たちがおいしいチョコレートを食べることができたり。

広い視点でものを見ると、自分本位で考えていたら見えていないことが見えてきたり、逆に自分に引き寄せて考えたら見えてくるものもあったり。

想像力を働かせて、先を見通すことがとても大切で、今自分が何をすべきかだとかどういう選択をするかとかが、それによってかわってくると私は考えている。

世界が負の連鎖を引き起こさないために、そういった視点で再考してみてもよいのではないだろうか。



posted by S.A.L. at 01:10 | Comment(14) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月21日

写真の持つちから。

この三連休、僕は東京都写真美術館が主催の「写美フォトドキュメンタリーワークショップ」に参加した。プロのフォトジャーナリストであるQ.サカマキさんと、AERAでフォトエディターをしている外山さんを講師とするワークショップで、将来フォトジャーナリストを目指す自分にとってはとても刺激的な時間だった。ワークショップを通じて、僕は「写真」の持つ力の素晴らしさを改めて実感することができた。



フォトジャーナリストに求められる最大の要素は、そこにある問題をどれだけ「美しく」「強く」そして「シンプルに」切り取ることができるかどうか、だ。それらの要素を兼ね備えた写真は、見ているヒトの心をがっしりと掴んで離さない。見ているヒトが写真の中に引き込まれてしまうような錯覚を覚える事もあるだろう。僕は、そうなる。

国際問題を伝える方法は、様々なものがある。講演会や文章、機関誌や映像、ホームページ。別に写真じゃなくてもいいじゃん、と言われると、そんな気もしてくる。

でも、ヒトに「こんな問題があるんだから、知らないとダメですよ!こんな可哀想なヒトたちがいるんだから、知らないとダメですよ!」とお説教するようじゃ、なかなか問題を伝えることはできない。ヒトはそういう伝え方を拒絶しがちだ。特にそもそも問題に対して興味がないヒトたちは、「自分はそんなことに触れたくない」と思ってしまう事がほとんどだと思う。

写真は、そういう壁をさらりと超えて行く。だから僕は、写真の伝える力を信じている。写真という「アート」か「ドキュメント」か、極めて曖昧な立ち位置にいる媒体だからこそ、そんな芸当がなせるに違いないだろう。写真という美しい布は、「問題」を優しく包み込むことで、見ているヒトの心にしっかりと入り込んでいく。それは、見ているヒトが自分から「何が起きているのか知りたい」と思ってしまうような魔法の力を持っている。



しかし、アートかドキュメントか曖昧な写真は、諸刃の剣でもある。それは、問題を「作品化」してしまうからだ。フォトジャーナリストは、時には死体の写真を撮ることもある。飢餓で苦しむ人々を撮ることもある。紛争の瞬間を撮ることもある。でも、それらを美しい構図の中に収めると、映っている問題は「静物」として変換されてしまう。それはアートとしての作品を成す、ひとつの要素に過ぎなくなってしまうのだ。それはある種、問題そのものを覆い隠してしまうことになり兼ねない。見ているヒトの感覚を麻痺させてしまうからだ。

アートなのか、ドキュメントなのか。

フォトジャーナリストはそのジレンマに耐えず苦しむこととなる。中にはそんな批判の矢面に立たされるフォトジャーナリストもいるし、倫理的な悩みを抱えて自殺してしまった方もいる。写真という極めて曖昧でナイーブな媒体を通すことには、それなりの責任が生じるのである。

しかし、そういう面を持っているからこそ、写真は魅力的で効果的な媒体なのだと、僕は考えている。



「一枚の写真が、世界を変えることがある。」

これは、報道写真誌DAYS JAPANの表紙に書かれている言葉だ。写真にはそれくらい強い力があると、僕は信じている。そしていつの日か、自分がそんな写真を撮ることができれば、と夢を見る。

僕の、フォトジャーナリストを志す気持ちは揺らがない。


文責/はたちこうた(代表)



◎追記
現在、恵比須にある東京都写真美術館では、世界報道写真展2010が開催されています。どれも素晴らしい写真ばかりですので、ぜひ足を運んでみてください。

http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-82.html

posted by kota at 17:58 | Comment(14) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月14日

「頼り愛」


初めまして。
広報局1年の沼井柚貴乃と申します。


先日、とある大学の教授の方とお会いする機会があり、
とても心温まるお話をしていただきました。
今回はその話について書かせていただきたいと思います。







みなさん、突然ですが以下の質問に答えてください。


< もしあなたがこんな状況のとき、「頼る人」は誰ですか? >

@お金がないとき
A精神的に辛くなったとき
B引っ越しで重い荷物を運ぶとき
C醤油がなくなったとき

特定の誰かであってもいいですし、もちろん何人いても構いません。
「友達」であったら具体的に誰なのか、何人なのか、思い浮かべてみてください。
「家族」や「恋人」の場合も同様です。

思い浮かべましたら、その人数を足して、合計人数を出してください。
違った項目に同じ人が当てはまる場合は、それは一人としてカウントしてください。


< あなたは、合計何人でしたか? >


ちなみに私は20人でした。

その教授がおっしゃるには、この話を生徒にすると
だいたいの人が1〜20人ほどと答えるのだそうです。

「しかし、」教授は話を続けました。


「同じ質問をアフリカですると、
ほとんどの人が『100人』と答えるんだ」と。




私はこの話を聞いたとき、とても衝撃をうけました。



だって、アフリカってとても貧しくて、治安も悪い国。
政治が不安定で、多くの国民が日々エイズの恐怖に怯えている。

そんな国で、どうして?




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どんなに苦しい状況においても、家族の温かさがある。
どんなに悲しいことが起きても、恋人の支えがある。

この地球に生まれて、産声をあげたその瞬間から、
私たちは皆、数えきれないほどの人に支えられて生きています。

時には頼り、時には頼られて生きています。





しかし、私たち日本人。
醤油が切れてしまったとき、
隣の家へ行って「貸してください」のひとこと、言えますか?

何の気兼ねもなく、「人に頼ること」出来ていますか?



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アフリカという地域は確かに不安定な場所であるイメージ。

だけど

たくさんの辛い過去を乗り越えてきたことで、
「人との繋がり」を大切にする能力がとても優れているように思います。



日本人が冷たいとは思いません。

でも、人との絆を大事にし、人を信じて頼ることのできる、
そんな人が多いところは、きっときっと温かい場所。

たとえ今はそうではなくても、
きっと近い未来、悪政の時代は終焉を告げ、
エイズの恐怖から解放され、元気な子供の笑い声でいっぱいの国になる。



さぁ、日本人。

人を信じてみよう。
頼ってみよう。


「正直、地球の裏側で起きていることなんか…」
と思っているそこのあなた。

まずは電車でおばあちゃんに席を譲ってみよう。
道に迷った外国人に、ギコチナくてもいいから、案内をしてみよう。



日本が、雨の日に笑顔で

「傘、入れてもらえますか?」

のひとことを気軽に言える国になりますように。



頼り合うこと、それはきっと温かい世界を創っていきます。


大切にしましょう、「頼り愛」。




【文責:沼井柚貴乃】

posted by S.A.L. at 00:37 | Comment(17) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月11日

今日は何の日?

今日は何の日?

突然ですが、問題です!
今日は何の日でしょう??

* 






「Giorgio Armaniの誕生日」「真珠記念日」
と答える人もいるかもしれませんが、
私が伝えたかったのは、
本日は『世界人口デー』という事です!

ではでは、2問目。
現在の世界人口はだいたいどれくらいだと思いますか。







正解は、なんと!!!!!!
約67億人(2010年5月10日世界保健機関発表)でした。
これは、1950年は約25億人だったので、60年間で2.7倍にも膨らんだことを示します。
また、2050年には90億人を超えるだろうとも言われており、
今深刻な人口問題に直面しています。


つまり、この二問から何がいいたかったかというと、
『世界人口デー』とは、1987年7月11日に、
ユーゴスラビア(当時)で生まれた男の子の赤ちゃんを、
「世界で50億人目」と国連人口基金(UNFPA)が認定し、
これを機会に、人口問題が重大な問題であり、
早期解決が必要であるという事を一人でも多くの人に認知してもらうために、
国連が指定した日ということです。


世界人口問題は長年問題視されており、
様々な切り口から、取り組まれてきましたが、
未だに、はっきりとした解決方法が見出されておりません。

私自身、今回この記事を書くにあたり、
解決方法を講じてみたのですが、
残念ながら答えを見出す事ができませんでした。

なので、最後に、またまた問題?!お願い?!です。
あなたは、人口問題をどう解決したらいいと思いますか。
無知な私に教えて下さい。
また、この場でディスカッションし、
新しい解決方法を見出しませんか。

たくさんのコメントお待ちしております。

文責:小川真菜
posted by S.A.L. at 11:13 | Comment(18) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月05日

誰が為にSALは有る

こんにちは。
広報局一年の田中紳顕です。
湿気が多いですね。早く梅雨が明けることを切に願います。



さて先日、興味深い記事を見かけました。
その記事には、黒を基調とした表紙にエルビス・プレスリーの穏やかな死に顔の写真が掲載されていて、他の記事とは違う異彩さを放っていました。

題名は「死ぬほど見たい遺体写真の魔力」

人は死体の写真を恐怖と嫌悪を抱きつつも、ついつい見てしまいたくなる矛盾した気持ちを持っているという内容です。


私はなるほどその通りだと思いました。
現に、カンボジアのキリングフィールドや、ナチスドイツのアウシュヴィッツなどのグロテスクな写真には、見てて面白いものではないと分かりつつも、ついつい目を向けてしまいます。
グロテスクなものって、普通見たくないですよね?
でも私たちは視線を注いでしまいます。
どうしてでしょうか。

私は、人が「死」という忌語、キーワードに魅せられてしまうことがあるからだと思います。
実際、私は(私だけかもしれませんが)駅のホームで電車が通るとき、恐いことだと思いつつ、飛び込んでみたくなる衝動を持つことがあります。実際にはしませんけど。
皆さんにも同じような経験があるはずです。

他にもおおまかにいうと、死ということに対する何らかの感情を持つことですね。
死んでいる人々を見て憐憫の感情を抱いたり、時には泣きたくなるほど悲しくなったり。


私はこの記事を読んで、ふと我々SALが行っている活動を思いました。私たちは「飢餓」「病気」「地雷」などという、“死”へとのびる直線的なベクトルを少しでも弱めようと、Send、Aid、Learnという方法を用い、活動しています。
「苦しんでいる」から「助ける」みたいな。

それはとても素晴らしいことだと思います。
幸せ創りの手伝いができるからです。


しかし、私たち人間は死に特別な感情を持ち、死を重視してしまいます。
そのことが時に私たちの活動を単純化させてしまうかもしれません。
〜でたくさん人が死んだ。
じゃあ、助けよう!みたいな感じで。

そのような単純化されたプロセスの助けは、現在進行形で苦しんでいる人々への助けというより、むしろ既に死んでしまった人々への憐憫に過ぎなくなってしまうのではないでしょうか。

死んでしまった人を助けることはできません。
幸せ創りの手伝いはできません。

助ける対象を見誤ってはいけないと思います。


これは死に関係する話だけではありません。
私達が誰かを助ける上で、本能の赴くままの中途半端な動機、不明瞭な対象を持ったままでいると、活動自体が中途半端なものとなってしまいます。


それを防ぐために、私たちには慎重に考察を重ねる必要があります。
誰を何のためにどうして助けるのかという考察をです。



手間はかかります。
だけどそんなひと手間が、よりたくさんの幸せをもたらす為の隠し味になるはずです。きっと。


【文責:ニコライ】
posted by S.A.L. at 23:52 | Comment(14) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月04日

「人」「人生」

こんにちは。
広報局の武井ヒロアキです。

もう7月に入ったんですね。
みなさん夏の予定は立っていますでしょうか?







今、S.A.L.の2年生でドキュメンタリー映画の制作をしています。

今年の夏も、撮影のためにカンボジアを訪れる予定です。



映画の詳しい内容はまだ明かせないのですが、
このドキュメンタリーを撮りたいと思ったきっかけを少し思い出しながら、書いてみたいと思います。



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僕は、去年の夏に初めてカンボジアを訪れました。
そのときにNGOの職員のかたと麻薬についてのお話をする機会がありました。


当時、僕は

「ダメだとわかっていて麻薬に手をだすような人は、問答無用で極刑を下しても良いのではないか」

とすこし過激な意見を飛ばしていました。



すると、職員のかたは

「まぁ、そう言われると何も言い返せないんだけどね。でも、いろんな事の裏側には人がいて、人生があるんだよってことはわかっていて欲しいなー」

とおっしゃっていました。



その後も、いろいろと話はふくらんでいったのですが、

この「人」「人生」という言葉は、
僕の心に「トゲ」のように何ヶ月も刺さり続けていました。



確かに、「いろんな事」の裏側には人がいて、人生がありますよね。
でも、それって正直「アタリマエ」。


だから、トゲとしてささりっぱなしだったあの言葉も、しばらく僕にとっては何の意味も持ちませんでした。

「しばらく」は。

ただ、「人」「人生」というキーワードは強くトゲとして、僕の心に刺さっていました。




このトゲが「本当の意味」を持つのは、次にカンボジアを訪れたときになりました。

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ここまでが、ドキュメンタリーを撮りたいと思ったきっかけの出来事なです。

ですが、
「本当の意味」についての話をするのは、またの機会にしたいと思います。



なので、
今日このブログを読んでくれた皆さんも

いろんな事の裏側にある「人」「人生」

という言葉を心にトゲとして刺しっぱなしにしておいてください。

「人」「人生」という言葉についてすこし考えてみてください。



そして、
つぎに「本当の意味」の話をするときに皆さんなりの解釈をしていただけると嬉しいです。



それでは次の武井ヒロアキで「本当の意味」をお楽しみに。



映画の公開は来年の8月を予定しています。
そちらもお楽しみに。
posted by S.A.L. at 22:18 | Comment(16) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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